『魔境江戸川・八百八州の刺客』
第23話 魔境江戸川・八百八州の刺客
二〇四一年、七月。東京・江戸川競艇場。
日本で唯一、河川をそのまま利用したこの水面は、上げ潮と下げ潮が激しくぶつかり合い、不規則な「うねり」がレーサーを底なしの深淵へと引きずり込む魔境である。
ピットに漂うのは、潮の香りと、焦げ付いたスラストの排気音。
「……随分と、監査役が賑やかになったな」
健太は『ハヤブサ』のエンジンカウルを開け、鋭い眼光で内部を点検していた。火野の報告通り、スラスト流量制御弁には、肉眼では判別しがたいほど精密な、しかし致命的な「ヤスリ跡」が刻まれていた。
スラストの供給を不安定にさせ、最高速での失速を狙った卑劣な細工。だが、健太の指先はその傷跡をなぞり、ある「計算」を弾き出していた。
脳裏に浮かぶのは、前検日にペットホテルで見た愛犬・スエの態度だ。排水口の不気味な水渦をじっと見つめ、鼻をヒクつかせていたあの眼光。
そこへ、全国から「新人の首」を狩りに集結した、各支部の猛者たちが現れる。
「あら、江戸川の泥水は相変わらずね。……佐伯さん、私の『精密旋回』の邪魔だけはしないでちょうだい」
岡山の長野友里恵が、鏡のように磨き上げられたペラを手に通り過ぎる。その後ろには、メカニック兼任の薮本明子が、一瞥しただけでハヤブサの欠陥を見抜いたような鋭い視線を健太に投げた。
「……いいエンジンね。でも、調整が現場を無視してる。私ならもっと『差し』のトルクに全振りさせるわ」
群馬支部からは「スタートの神」蜂須賀美恵子と、職人気質の神崎裕次郎。
「三十六歳の新人さん。江戸川のゼロ台スタート、あんたの心臓は耐えられるかい?」
兵庫からは、スラスト制御の天才・福田光帆と、不気味なほど静かなレース運びを見せる井上忠興。
「前方で足を溜めて、最後にお前を食い切ってやるよ」
そして――。
「……佐伯。約束通り、全速で叩き潰しに来たぞ。三国の借りは、この濁流で返させてもらう」
福井から特別招待枠で参戦した、若狭の総帥・中島和樹。その後ろには、相変わらずスラストの気配を完全に消した沼田一恵も立っていた。
「ちょっと! 全員で寄ってたかって、うちの『新人』をいじめないでくれる?」
真っ赤なレーシングスーツに身を包んだ霧島麗華が、割って入るように健太の隣に陣取った。
「佐伯。ハヤブサの不調は、白石に裏で調べさせているわ。……あなたはレースに集中しなさい。江戸川のうねりは、福井の淡水ほど甘くないわよ」
「……わかっています、霧島さん。借方は『細工された機体』、貸方は『全員ぶち抜く気合』。……帳尻は、水面で合わせますよ」
初日、第十二レース「ドリーム戦」。
第一コースに中島(福井)、第二コースに麗華(東京)、第三コースに長野(岡山)、第四コースに蜂須賀(群馬)、第五コースに井上(兵庫)、そして第六コースに緑のカポックの佐伯健太。
江戸川の下げ潮が最高潮に達し、水面には直径二メートルを超える巨大な「渦」が不規則に発生している。
「……スタート!!」
大時計が頂点を刻む。蜂須賀がコンマゼロ五の超抜スタートで飛び出すが、江戸川の暴力的なうねりが全艇を容赦なく弾き飛ばす!
健太は、細工されたレギュレーターの「遊び」を、あえて制御しようとはしなかった。スラストの供給が途切れる瞬間のノイズ感覚をコンマ一ミリ単位で掴み、断続的な爆発で推進力を得る『パルス・スロットル』を即興で敢行したのだ!
(前検日にスエが見つめていた、あの渦の支点……一番『静かな』ラインは、渦の中心だ!)
健太は全神経をコンタクトレンズの瞳に集中させた。全艇が回避しようとする「巨大渦の中心」へと、緑のカポックのハヤブサを躊躇なく突っ込ませた!
「狂ってる……! あのデッドゾーンに飛び込むなんて!」
福田光帆が叫ぶ!
だが、ハヤブサは渦の回転エネルギーを遠心力として利用し、まるでバネが弾けるように第一マークを立ち上がった! 細工を施した犯人が計算し得なかった、健太の「現場の即興力」が、不備を最強の武器へと変えたのだ!
「……サラリーマンを、舐めるなよ……ッ!!」
初戦、死地から生還した健太が緑のカポックで堂々の二着に滑り込み、全国のスペシャリストたちを絶句させた!
ピットに戻った健太を、中島和樹が複雑な表情で迎える。
「……貴様、あの機体でよく無事だったな」
「……帳簿が汚れていれば、書き直すまでですよ」
健太は努めて冷静に答えたが、ヘルメットを脱いだその顔からは、滝のような汗が流れていた。パルス操作による反動は、彼の腕の筋肉を千切れんばかりに酷使していた。
その喧騒から離れたピットの影。
ハヤブサの予備パーツを、指の骨が鳴るほどの力で握りつぶす「黒い手袋」があった。
「……計算外だ。あの男、あんな壊れかけの『資産』でまだ利益を出すというのか」
濁った江戸川の水面下で、健太を抹殺せんとする「裏の監査人」が、次なる毒を研ぎ澄ませていた。
G1関東地区選手権。それは、健太のレーサー人生において、最も過酷な決算期となる。




