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からくり競艇〜サラリーマン、魂のフルスロットル〜  作者: 水前寺鯉太郎
プロ駆け出し編

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21/56

『女王、越前へ降臨す・スエの選別』

二〇四一年五月、三国。激闘の熱がようやく引き、敦賀の水面が穏やかな朝の光を反射させていた。

 佐伯健太は帰京の準備を整え、新幹線の時間まで駅前の静かな公園でスエを遊ばせていた。昨夜の死闘が嘘のように、北陸の風は柔らかい。

「……フゴー、フゴー」

 昨夜の「勝利のナビゲーター」としての威厳はどこへやら。スエは道端のシロツメクサに鼻を突っ込んで、のんびりと福井の余韻を味わっている。

「……あら。意外と元気そうじゃない。もっとマブイ酔いで、泥のように眠りこけているかと思ったけれど」

 凛とした、しかしどこか弾んだ声が公園の空気を震わせた。

 振り返ると、そこにいたのは場違いなほどファッショナブルな私服に身を包んだ霧島麗華だった。大きなサングラスをかけ、モデルのような歩様で芝生を横切ってくる。

「……霧島さん? どうしてここに。たしか東京支部で新人教育の会議があったはずでは」

「……たまたまよ。たまたま福井に美味しいおろし蕎麦を食べに来たら、ついでにあなたの生存確認もしておこうと思っただけ。勘違いしないでね、ついでなんだから」

 麗華はツンと顔を背けたが、その手には高級ブランドの紙袋ではなく、地元の精肉店が自家製で出している「特選ササミジャーキー」の袋が握られていた。

 健太と麗華は、公園のベンチに腰を下ろした。

 スエは、麗華が持ってきたジャーキーの匂いに野生の勘で即座に反応し、「フガフガ!」と尻尾をプロペラのように振って彼女の膝に身を乗り出した。

「ちょっと……! 服が汚れるじゃない。これ、一着いくらすると思っているの」

 口では毒づきながらも、麗華の口元はわずかに緩んでいた。彼女は慣れない手つきでジャーキーを小さくちぎり、スエのシワの寄った口元へ運ぶ。その指先は、レース中の冷徹なそれとは別人のように優しい。

「……霧島さん。昨日のレース、見ていたんですか」

「……ネット配信を少しね。あんな空中旋回、帳簿外もいいところよ。一歩間違えれば大赤字(転覆)、最悪の場合は機体もろとも特別損失(廃品)行きだったのに」

「……現場じゃ、予定通りの予算なんて組めませんよ。無理を通してでも、目前の利益(勝利)を掴み取らなきゃならない瞬間がある。それが、俺のような資本マブイの少ない者が生き残る唯一の手段です」

 健太が眼鏡を拭きながら答えると、麗華はサングラスを少しずらし、健太の横顔をじっと覗き込んだ。

「……あなたは不思議な人ね。暴走族の過去があって、経理の知識があって……それでいて、このパグの前ではただの甘い飼い主。……どの数字が、本当の『佐伯健太』なの?」

「……どれも本当ですよ。全部合わせて、俺という一個体の『連結決算』です。どの部門が欠けても、今の俺のバランスシート(純資産)は成立しない」

 スエが満足げに麗華の膝の上で丸くなった。小さな鼻提灯を作り始めたその光景を見て、麗華は小さくため息をつき、再び「東京支部の女王」としての瞳に戻った。

「……次は江戸川で『G1・関東地区選手権』があるわ。……私も、西も、白石も。今度はあなたの『空中旋回』をデータに入れて待ち構えている。もう、奇襲は通じないわよ」

「……望むところです。G1の舞台は、一般戦よりもさらに『監査』が厳しいんでしょう? やりがいがあります」

「ええ。……だから、それまでにそのボロボロの体を少しはメンテナンスしておきなさい。……これは、そのための『先行投資』よ。倒産されては困るから」

 麗華はそう言って、健太の手のひらに一枚のカードを押し付けた。都内にある超一流マッサージ店の回数券。一般のサラリーマンが自腹で通うには少々「予算外」な代物だ。

「……本当についでに買っただけなんだから、変な勘違いしないでよね」

 新幹線の時間が迫り、麗華は颯爽と立ち上がった。

 スエが寂しそうに「クゥーン」と鼻を鳴らすと、彼女は一度だけ振り返り、サングラスの奥でいたずらっぽく微笑んだ。

「……ササミのお礼、江戸川で返してもらうわよ。佐伯レーサー。……高くつくわよ?」

 夕暮れの敦賀駅。

 遠ざかる麗華の背中を見送りながら、健太はスエを抱き上げた。

「……スエ。俺たち、もっと稼がなきゃな。女王様への返礼品、そしてG1の出資金。……次のレースは、相当な激戦になりそうだ」

「フゴッ!」

 福井での束の間の休息は終わり、舞台は再び、魔境・東京へ。

 江戸川の荒れる水面。G1という名の頂上決戦。

 そこには、健太を賞賛する者ばかりではない。突如として現れた「異端のルーキー」を疎ましく思い、その「過去」を暴いて引きずり降ろそうとする、より狡猾な闇が渦巻いていた。

 健太は再び眼鏡をかけ直し、駅のホームへと足を進めた。

 レンズの奥で、彼の瞳はすでに「次なる戦場」の潮の流れを読み始めていた。

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