三国の決算・総帥vs狂犬
第20話 三国の決算・総帥vs狂犬
二〇四一年、五月。三国競艇場。優勝戦。
水面は夜の冷気に包まれ、カクテル光線が淡水の硬く冷酷な表面を銀色に反射させている。
第一コースには、今節全勝の怪物・中島和樹(白のカポック)。第六コースには、平和島の奇跡を再び現実に変えようとする緑のカポック、佐伯健太。
「佐伯……お前とハヤブサの走りは、確かに理に適っている。だが、それはまだ『操作』の域だ」
ピット離れ直前、中島が低く、地鳴りのような声で告げる。
「俺と〇一号機は、既に一つの生命体だ。淡水の反発も、夜の湿気も、すべてが俺の血肉。……『おじさんの頑張り』ごときで届く場所じゃない」
健太は胸ポケットに眼鏡を収め、プロテクターの首元を固く締め上げた。コンタクトレンズの瞳に、夜の水面の細かな数値が浮かび上がる。
脳裏をよぎるのは、前検日にペットホテルで見た愛犬・スエのあの眼光だ。カクテル光線が波の頂点で乱反射する「コンマゼロ一秒の光の歪み」。
「……効率化の果てにあるのは、無機質な数字だけじゃない。泥臭い執念の先にしか見えない『答え』があるんですよ、総帥。俺たちサラリーマンは、いつもその答えを求めて残業してるんです」
「……スタート!!」
大時計の針が頂点を射抜くと同時に、中島の〇一号機が滑らかに、しかし恐ろしいほどの強烈なトルクで加速した!
中島の乗る『リニア・ベクター』のスラスト出力は、驚異の九万七千オーバー!
基礎出力一万八千の健太とは、根本的な「資本金」が違いすぎる! 中島は第一マークに到達する前に、他艇に引き波すら立てさせない圧倒的な気流の壁を作り出し、三国水面を完全に支配した!
(……速い。これが『若狭の総帥』の、本物の現場力か……!)
健太のハヤブサが、中島の放つ強大なスラストの重圧に煽られ、艇体が激しくバウンドする。硬い淡水面が、健太の膝を、そして肋骨を砕かんばかりに突き上げてくる!
中島が完璧な「逃げ」の体勢に入る。コンマ一ミリの狂いもない、最短・最速の絶対旋回。
誰もが王者の勝利を確信したその瞬間、健太の脳裏で、前検日に見たスエのあの眼光が鮮烈に閃いた!
(波の頂点……光が歪む一瞬の『段差』……今だッ!!)
「……スエ、行くぞ……!!」
健太は、機体の限界を完全に無視し、からくり機関の全排気圧をエンジンの燃焼室ではなく、艇底のハイドロフォイルへと一気に開放した!
奥義:【減価償却・ダイブ】!
ハヤブサの機体を意図的に浮かせ、中島の作り出した分厚い引き波という「段差」をジャンプ台にして飛び越える! プロの世界では狂気の沙汰、転覆必至と言われる前代未聞の空中旋回!
ハヤブサの翼が夜空を舞い、〇一号機の真上を掠めた!
「な……ッ!? 飛んだ……だと!?」
中島が初めて驚愕に目を見開いた!
激しい衝撃とともに着水した瞬間、健太の視界が火花を散らした。しかし、彼はその衝撃をからくりプラグの再点火による「逆噴射」の推進力に変え、中島の内側へ強引にハヤブサをねじ込んだ!
バックストレッチ。中島の暴力的なスラストが再び健太を捉えにかかる。
「……無茶をしたな、佐伯。だが、着水のロスで速度は死んでいる!」
中島が外側から鋼鉄の壁のように被せ、健太をコース外の「死地」へ押し出そうとする。
だが、健太はそこで、かつての経理部で鍛え上げた「完璧な時間管理」の真髄を発揮した。
ハヤブサのスクリューの回転数を、中島の引き波が刻む「周期」に、数学的な精度で完全に同期させたのだ!
水の抵抗を完全にゼロにする!
圧倒的なスラスト出力の差を、物理法則の「帳尻合わせ」で無効化する!
「サラリーマンを……、舐めるなよ……ッ!!」
第二マーク。健太は、中島が唯一「機体との対話」に集中しすぎて見落とした、コンクリート護岸の跳ね返り波(反射波)を利用した。
鋭角に、そして無慈悲に。
ハヤブサが〇一号機の鼻先を、コンマ一ミリの差で切り裂いた!
ゴールイン!
優勝、緑のカポックの六号艇、佐伯健太!
静まり返る三国のスタンド。次の瞬間、地鳴りのような歓声が夜の三国の空を揺らした!
三十六歳の新人が、競艇界の重鎮を撃破して見せた二節連続の戴冠だった!
ピットに戻ると、中島和樹が真っ先に健太の元へ歩み寄ってきた。彼は無言で泥と油にまみれた右手を差し出し、ボロボロになったハヤブサを、戦友を眺めるような目で見つめた。
「……負けたよ。……『対話』を超えた、『狂気』の演算だった」
「……いえ。ただ、どうしても愛犬に、最高級のササミを食わせてやりたかっただけですよ」
健太はふらつきながらも中島の手を力強く握り返した。
表彰式、勝利者インタビュー、そして退走手続きを終え、スマホを受け取った健太はペットホテルへ速やかに電話を掛けた。受話器の向こうで、スエが「当然の配当だ」と言わんばかりに嬉しそうに「フゴフゴ」と鼻を鳴らした。
福井・三国の一般戦は、三十六歳の新人による大逆転の「本決算」で幕を閉じた。
だが、健太の次なる現場は――「東京支部」への凱旋。
そこには、平和島の屈辱を晴らすべく、さらに狡猾な「罠」を仕掛ける西貴斗や、健太の台頭を組織への脅威とみなす新たな「刺客」が待ち構えていた。
「……よし、スエ。江戸川の、あの汚い水の匂いが恋しいな。帰ろうか」
健太は胸ポケットから取り出した眼鏡を掛け直し、いつもの冴えない「おじさん」の貌に戻ると、三国のカクテル光線に背を向けて歩き出した。
東京支部の「異常な日常」が、再び加速しようとしていた。




