『パグの咆哮・不可視の航跡を追え』
第19話 パグの咆哮・不可視の航跡を追え
二〇四一年、五月。三国競艇場。シリーズ二日目、ナイター。
昨夜、佐伯健太に肉薄された沼田一恵は、さらなる「深淵」へとその身を沈めていた。
彼女の操る黄色いカポックの五号艇は、今や水面を滑るスラスト音すら聞こえない。ただの「影」が時速八十キロで高速移動しているような、物理法則を無視した不気味な静寂が三国のアクリル水面を支配している。
対する健太は、連日限界を超えた高回転運用による深刻な過給振動症(過圧ノイズ)と、三国の重い海風に苛まれていた。
(……っ、クソ。視界が……二重にブレやがる……)
暗闇に溶け込む沼田の機体。白石が構築した最新の予測データも、ベテラン中島和樹の野性的な直感も、気配を完全に断絶した彼女を捉えることはできない。
健太はヘルメットの暗がりの中で、前検日にペットホテルで見た愛犬・スエのあの光景を鮮明に思い出していた。
あの時、スエは沼田の方向をじっと見つめ、鼻をヒクつかせていた。パグ特有の、あの突出した大きな瞳。スエは気配ではなく、「カクテル光線が水面に反射してわずかに歪む光のチラつき」と「空気の微小な振動」を、本能で視認していたのだ。
(……そうか。スエ、お前には『視えて』いたんだな。奴が帳簿外でどう動こうとしているのかが!)
健太のコンタクトレンズの瞳に、鋭い閃光が走る。
気配がないのではない。気配を消そうとするあまり、周囲の水面の光と波の圧力を「不自然に歪ませて」いるのだ!
コース入り。五コースに沼田の一恵、赤のカポックを纏った三コースに佐伯健太。
スタートの瞬間、沼田は再び暗闇の静寂へと消えた。並走しているはずなのに、鏡のような水面には波紋ひとつ見えない。
「消えた……。白石さんの言う通り、これはもはや『幽霊』よ……」
二コースに構える今井玲子が戦慄に声を震わせる。
だが、健太の耳には、風の音と波の爆圧の合間に生じる「コンマゼロ一秒の微かな真空音」がハッキリと聞き取れていた!
(右だ! 右の死角から差し込もうとしている!)
健太は全神経を研ぎ澄ませた。大歓声とエンジンの咆哮、そのわずかな隙間を縫って届く水面の変調。
前検日のスエの直感から導き出した「光の歪み」と「圧力の変調」。健太はそれを脳内で瞬時に処理し、三国の水面をリアルタイムの三次元マップへと展開した。沼田が仕掛けるはずの、コンマ数秒後の「無音の差し」を、過去の事故データから逆算する!
「そこだッ!!」
第一マーク。誰もいないはずの、虚無が渦巻く空間に向かって、健太はハヤブサを強引にねじ込んだ!
ガガガッ! と金属と強靭なカウリングが激しく噛み合う強烈な衝撃! 闇の中で、ハヤブサの船体が沼田の五号艇と激しく接触し、カクテル光線の下で鮮烈な火花が散った!
「……ッ!? なぜ、私の位置を……この暗闇で……!」
沼田の無機質な声に、初めて剥き出しの「驚愕」が混じった!
「……俺の『秘書』が、お前の不正(隠密)を完璧に暴いたんだよ! 監査完了だ、沼田!」
健太はそのまま、接触した沼田の機体を旋回の「支点(重石)」にするようにして、強引にハヤブサを回した!
光り輝くゴールラインへと、ハヤブサのからくり機関を全開で解き放つ!
「サラリーマンを、舐めるなよ……ッ!!」
闇を切り裂くハヤブサの翼!
第一マークで影を捉え、直線で一気に突き放す。ゴールラインをトップで駆け抜けたのは、赤のカポック、三十六歳の新人・佐伯健太だった!
ピットに戻り、健太は精根尽き果てた体でヘルメットを脱ぎ、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け直した。宿舎の通信解除後、スマホでペットホテルのカメラ映像を開く。画面の中でスエが無邪気に丸くなって眠っている姿が見えた。
「……助かったよ、スエ。お前が見せてくれたヒントがなきゃ、今頃三国の藻屑だった」
その様子を傍らで見ていた沼田一恵は、そっと艇を降り、健太の前に立った。
「……おじさん。……私より、ずっと、優秀なデータを持ってる。……次は、負けない」
沼田の感情のなかった瞳に、初めて小さな「敗北の悔しさ」と熱が宿っていた。
それをきっかけに、三国の重鎮・中島和樹や今井玲子までもが、健太の底知れぬ勝負勘に感服し始める。
「ガハハ! 佐伯、お前、暗闇で目でも見えてんのか!? 大した勝負勘だ!」
中島が豪快に笑い、ピットの張り詰めた緊張感は一気に和らいだ。
福井・三国の夜に、おじさんと愛犬の絆が生んだ新たな伝説が刻まれた。
だが、その光景を、冷徹な殺意を込めて遠くから見つめる影が一つ。
(……ずいぶんと楽しそうじゃないか、佐伯。平和島の余勢を駆って、ここでも『利益』を出すつもりか?)
健太の快進撃を面白く思わない、東京支部の「ある人物」が、すでに三国の地を踏んでいた。
三国のナイター照明が、健太の背後に伸びる影を、不気味に長く引き延ばしていた。




