『沈黙の暗殺者(サイレントキル)・夜を斬るハヤブサ』
第18話 沈黙の暗殺者・夜を斬るハヤブサ
午後八時、三国競艇場。
カクテル光線に照らされた水面は、昼間の鏡のような清冽さを失い、底の見えない黒いインクを流し込んだような不気味な光沢を湛えていた。
北陸の夜気が急激に冷え込み、湿度が上昇する。淡水の水面は昼間よりも重く、硬く、侵入する艇を拒むように冷え切っていた。
健太はヘルメットを被り、プロテクターの首元を固く締め上げた。コンタクトレンズの瞳で黒い水面を鋭く睨みつける。
脳裏に浮かぶのは、前検日にペットホテルで愛犬のスエが見せた異様な態度だ。いつもなら愛嬌を振りまくスエが、沼田一恵に対してだけは低く唸り、警戒の眼差しを向けていた。
沼田の艇からは、レーサー特有のスラストの圧や殺気が一切感じられない。まるで風景の中にぽっかりと空いた人型の「空白」だった。
(……スエが警戒した理由が分かったぞ。あいつ、帳簿の上に載っていない『幽霊会社』みたいに存在感を消してやがる)
存在しないはずの気配が、確実に漆黒の水面へ滑り出そうとしていた。
「……第十二レース、進入開始です」
アナウンスとともに、六隻の機艇がピットを離れた。
第一コースに中島和樹、第二コースに今井玲子、そして第三コースに赤のカポックを纏った佐伯健太。
沼田一恵は大外第六コースに構えた。いや、構えているはずだが、水面には不自然なほどの静寂が漂っていた。
「……全速!」
大時計の針がゼロを刻む。
中島の一号艇が重厚なスラスト音とともにインから先行し、今井がそれに続く。健太もまた、ハヤブサのからくり機関の流量をコンマ一ミリ単位で制御し、中島の引き波の「一歩外側」を完璧なタイミングで捉えた。
だが、異変はその直後に起きた。
(……!? 左舷、誰もいないはずなのに……波が割れている!?)
健太の「現場感覚」が猛烈に警鐘を鳴らす。
視覚にも映らない。推進音も皆無。だが、ハヤブサの左側に確実な「質量の重圧」が存在していた。
沼田一恵の六号艇は、機体のあらゆる駆動音を特殊な消音ベクターで打ち消し、闇に完全に溶け込んでいたのだ。彼女は健太が第一マークへターンを仕掛けるコンマ数秒前の死角に、音もなく滑り込んでいた。
「……おじさん。そこ、私の通り道だよ」
ヘルメット越しではなく、直接脳内に響くような冷たい声。
突如として、闇から六号艇が「実体化」した!
第一マーク。スラストの気配が皆無なため、健太は回避のタイミングをコンマ数秒遅らされた。「差し」でも「まくり」でもない。相手の懐に音もなく侵入し、その推進力を物理的に剥ぎ取る暗殺者の旋回。
「がっ……、機体が……吸い込まれる……!」
ハヤブサが沼田の作った「無音の真空」に捕らわれ、硬い水面に激しくバウンドする。機体がバラバラに砕けるような強烈な衝撃が健太を襲う!
だが、ここで健太の中の「勝負師の野性」が、泥の中から目を覚ました。
「吸い込まれるなら……そのまま連れて行ってもらうまでだ。運賃は高くつくぞ!」
健太はスロットルを緩めるどころか、キャブレターの流量を限界まで「オーバーフロー」させた!
六一号機が悲鳴を上げ、過負荷でシリンダーが真っ赤に焼ける。沼田が作り出した「無音の波」の谷間を、健太はあえてサーフボードのように滑り抜ける挙動を取った。
【逆噴射旋回】!
エンジン内で爆発しきれなかった混合気を、ターンの頂点で一気に再点火! 青い炎とともに吹き出す爆圧の反動で、沼田の吸い込みから脱出すると同時に、強引に再加速へ転換する荒業!
「……避けた……? 私の気配が、コンマ一ミリもないのに……」
初めて沼田の無表情な瞳に、剥き出しの動揺が走った。
健太は、スエが前検日に見せた直感と、長年の現場で培った「殺気の不在という名の最大の殺気」を完全に読み切ったのだ!
「……沼田。数字に頼りすぎたな。現場には、帳簿に載らねえ『隠し資産』がいくらでもあるんだよ!」
カクテル光線を背に、ハヤブサが夜の三国の闇を鮮やかに切り裂いた!
一着、中島和樹。そして、わずか数センチの差で沼田を競り落とした二着に、赤のカポック、佐伯健太が滑り込んだ!
「……負けた。……おじさん、気持ち悪いよ」
レース後のピット。沼田がいつもの無表情で健太の前に立った。だが、その白い手は微かに震えている。
「……気持ち悪いのは、俺の身体の方さ。……いいレースだったよ、沼田」
健太はふらつきながらもヘルメットを脱ぎ、胸ポケットから眼鏡を取り出して掛け直した。疲弊した体に鞭打ちながら、自室のスマホでペットホテルに預けたスエの写真を開く。画面の中の愛犬の平らな顔が、まるで「ほらね、勝ったでしょ」と言っているかのように見えた。
遠くでそれを見ていた中島和樹が、静かに頷く。
「……機体との対話だけでは、あの男の『経験値』は崩せんか。……玲子、明日はペラを叩き直すぞ。あの三十六歳の新人を、三国の藻屑にするために」
三国の夜は、まだ始まったばかりだった。
カクテル光線の下、次なるライバルたちがそれぞれの「毒」を研ぎ澄ませ、佐伯健太の首を狙っている。




