『もふもふの決算・スエと剛毅』
第17話 もふもふの決算・スエと剛毅
二〇四一年、五月末。福井県、三国。
平和島での「マンシュウ・デビュー」という衝撃的な快挙を成し遂げた佐伯健太は、次なる戦場、三国競艇場にいた。
「北陸の虎」とも呼ばれるこの水面は、日本海の荒波が直接入り込むことはないものの、独特の重く強い風が吹き抜け、レーサーたちに繊細なスロットルワークを要求する。
前検日(レース前日)、手荷物検査と宿舎に入る前のわずかな時間。
健太は競艇場近くの指定ペットホテルで、愛犬のパグ・スエを預ける手続きを行っていた。
「……フゴー。フゴー」
スエは持参した特製座布団の上で、心地よい北陸の風に吹かれながら盛大な鼻鳴らしを披露していた。平和島の激闘を共に乗り越えた「相棒」は、環境の変化などどこ吹く風で、その平らな顔を満足げに揺らしている。
その視線の先、待合用のベンチの上で、銀色の小さな毛玉が動いた。
「あら、佐伯さんのところのスエちゃん? 今日もいい鼻鳴らしね。リズム感がプロ級だわ」
東京支部のベテラン、チームスプリンターズの清水房江が、愛獣のチンチラ『剛毅』を抱いて現れた。
剛毅は、その威風堂々たる名の通り、チンチラ特有の臆病さを微塵も感じさせない佇まいで、スエをじっと見つめている。
「……清水さん。剛毅くん、相変わらずの毛並みですね。以前いた経理部の役員室に敷かれていた、最高級のペルシャ絨毯より手触りが良さそうだ」
健太は険しい顔をわずかに緩めた。プロの世界に入って一ヶ月、彼にとって数少ない心休まる瞬間だ。
清水が剛毅をスエの隣に座らせると、スエは「……フゴッ?」と一瞬だけ警戒するように首を傾げた。しかし、剛毅が放つ不思議と落ち着いた波動に毒気を抜かれたのか、次の瞬間には、そのふわふわとした銀色の毛並みに湿った鼻を熱心に押し付けていた。
「あ、剛毅、くすぐったそう。……ほら、仲良くしてあげて」
剛毅は嫌がる風でもなく、小さな手でスエのシワの寄ったおでこを「ポン」と軽く叩いた。その仕草は、まるで功を焦る若手の部下を優しく労うベテラン上司のような、不思議な貫禄に満ちている。
「……清水さん。剛毅くんのその『動じない姿勢』、レースでも活きているんじゃないですか? 潮が引いて硬くなった三国の水面でも、あなたの艇が跳ねないのは、その安定感のおかげだ」
「ふふ、買いかぶりすぎよ。剛毅はただ、美味しいドライフルーツのことしか考えてないわ。佐伯さんのスエちゃんこそ、あの過酷な江戸川と平和島を潜り抜けてきた健太さんを一番近くで支える『敏腕秘書』じゃない」
スエは清水の言葉を理解したのか、剛毅に負けじとドヤ顔で胸を張った。
だが、剛毅が持っていた乾燥リンゴの一欠片を差し出すと、その「敏腕秘書」の面影は瞬時に消え去った。全力で短い尻尾を振り、一円の妥協もない執着心でリンゴに食らいつく。
「……まったく。我が家のキャッシュフロー(食欲)管理は、この通りザルですよ」
健太は苦笑しながら、その微笑ましい光景をスマホに収めた。
二匹の種族を超えた交流は、前検日の緊張感に包まれていた周囲の若手レーサーたちの心も、わずかに溶かしていく。
「……なんか、あのおっさんの犬と清水さんのチンチラ……見てるだけでレース前の無駄な力みが抜けるっすね。……癒やされるわ」
同じくペットホテルに立ち寄っていた火野龍也が、柄にもなく頬を緩めて呟く。平和島で健太に負かされて以来、彼の中で「オッサン」への対抗心は、奇妙な敬意へと変質しつつあった。
だが、そんな穏やかな空気を切り裂くような、冷徹な視線が遠くから注がれていた。
待合室の一角に立つ、沼田一恵。
彼女の周囲にはレーサー特有のスラストの圧や殺気が一切なく、まるで風景の中にぽっかりと空いた「穴」のように存在している。彼女の瞳には感情の色がなく、ただ無機質な興味だけが宿っていた。
「……おじさんの、犬。……美味しそうに、食べてる」
沼田が小さく呟いた瞬間、スエと剛毅が同時に動きを止めた。
動物特有の鋭敏な直感が、三国の夜に潜む「サイレント・キル」の不吉な予兆を察知したのかもしれない。リンゴを噛む音すら止まった静寂の中、沼田の影が長く伸びていた。
「……さて、受付の時間だ。スエ、剛毅くんにお礼を言っておけよ。借りは明日からのレースで返す」
健太はスエをスタッフに預けると、再び「元総長」の、そして「不屈のプロレーサー」の凄みが宿る眼光に戻った。
剛毅は清水の肩の上で、まるで「夜のレース、気をつけろよ」と言いたげに、一度だけ鼻をヒクつかせ、健太の背中を見送った。
翌日、夕闇。
空が紺碧から深い闇へと沈んでいく。
三国のカクテル光線が灯り、水面が漆黒の鏡のように夜を映し出す。
健太はピットで、六一号機『ハヤブサ』のカウリングを静かに叩いた。
「スエが見てんだ。不渡り(負け)は出せねえぞ、相棒」
平和島での勝利がフロック(偶然)ではないことを証明するために。
そして、前検日に感じた得体の知れない「不穏な気配」を切り裂くために。
三十六歳の新人は、再び漆黒の水面へと滑り出した。
三国の夜を切り裂くのは、剛毅の静かなる助言か、それとも沼田の無慈悲な一撃か。
佐伯健太の「第二期決算」が、今、激しく幕を開ける。




