三十五歳の研究生
「……正気か、あんた。本気で言ってるのか?」
二〇四〇年、春。江戸川競艇場に隣接する『大宮機艇教習所・関東校』の受付窓口。若い職員が、提出された願書と健太の顔を交互に三度見した。
周囲は、希望と緊張に瞳を輝かせた十代の少年少女ばかりだ。彼らの多くは、軽量化のために極限まで絞り込んだ体躯をし、最新のレーシングウェアに身を包んでいる。対して健太は、皺ひとつない白シャツに地味なネクタイを締め、ビジネスバッグを足元に置いていた。
「年齢制限は数年前に撤廃されたはずだ。……私の認識に齟齬があるか?」
健太が事務的に、しかし低く響く声で問う。その静かな威圧感に、職員は気圧されたように「いえ、規定上は問題ありませんが……」と口ごもった。
「通してやれ。こいつは客じゃねえ、獲物を探しに来た野良犬だ」
背後から、錆びた鎖をこすり合わせるような声が響いた。
現れたのは、顔に深い刻み皺を刻んだ老人――石原洋二校長だ。かつて「江戸川の死神」と恐れられた伝説のレーサーである。その足元には、主人に似てふてぶてしい面構えのブルドッグ『鉄』が、健太の磨き上げられた革靴の匂いを嗅いでいた。
「石原校長……。しかし、三十五歳ですよ? 二十歳も年下のガキどもと泥を啜ることになる」
「こいつの目は、とっくに泥の味を知ってる。……そうだろ、元総長」
石原の濁った、しかし全てを見透かすような眼光が健太を射抜く。健太は無言で眼鏡の奥の瞳を細めた。過去を隠すつもりはないが、ひけらかすつもりもなかった。
石原は不敵に笑い、鉄の頭を乱暴に撫でた。
「ここは滋賀の本校のような華やかさとは無縁だ。教えるのは『速さ』じゃねえ。……『死なない技術』と『波の殺し方』だ。ついてこれるか、おっさん」
「……経理部は、一円のズレが破滅を招く戦場ですよ。生存能力なら、この子供たちには負けません」
健太は、足元の鉄と視線を合わせた。鉄は一度だけ短く、肯定するように吠え、健太に道を譲った。
訓練開始から一週間。健太を取り巻く空気は、冷酷な拒絶に満ちていた。
「おい、おじいちゃん。腰痛めたら今のうちに経理に戻れよ。湿布代くらいはカンパしてやるからさ」
若手ナンバーワン候補と目される天才少年、カイが鼻で笑った。彼の背後には、最新の磁気浮上推進器「マブイ」を搭載した練習艇が鎮座している。
「最新型の『マブイ3000』だ。旧式のプラグ艇でモタモタしてる奴には、俺の引き波すら見えないだろうな」
健太は何も言い返さない。ただ黙々と、自分の割り当てられた旧式艇の整備を続けていた。
指先に伝わるボルトの締め具合。プラグの煤。それらを一つ一つ、脳内の帳簿に記録していく。
(出力係数、下方修正。……だが、トルクの立ち上がりには余裕がある。この『誤差』をどう利益に変えるかだ)
そして、その日は来た。
春の強風が江戸川を荒れ狂わせ、水面は「日本一の難所」の真髄を見せていた。洗濯機の中のようにかき混ぜられた濁流。白波が立ち、並の練習生は艇を安定させることすらできず、次々と転覆していった。
「いいか、波に逆らうな! 波を『殺せ』!」
監視艇の上から石原の怒号が飛ぶ。
カイですら、最新デバイスの制御を振り切る不規則なうねりに翻弄され、スロットルを緩めていた。荒波の前では、最新のテクノロジーもただの玩具に成り下がる。
その嵐の中、一隻のボートが弾丸のように飛び出した。
健太だった。
彼の視界には、もはや濁った水面は見えていない。網膜に投影されているのは、無数のグリッド線と、流体計算の結果を示すデジタルチャートだ。
(波高二十センチ、周期一点二秒。……右前方からの風速八メートル。……今だ)
健太は、使い古されたスロットルレバーを、〇・一ミリ単位で「刻んだ」。
暴走族時代、深夜の雨に濡れた首都高で、スリップの兆候を肌で感じ取り、極限のグリップを維持し続けた指先の記憶。それが今、経理マンとしての冷徹な計算式と融合する。
マブイ出力はカイの艇の半分にも満たない。しかし、その「流量制御」には一滴の無駄もなかった。
バウンドし、跳ね上がる船体。健太はそれを力で押さえつけるのではなく、微妙な体重移動と瞬時の減速で、波のエネルギーを「相殺」していく。
荒波が、健太のボートの前でだけ、まるで意志を持ってひざまずくように静まり、滑らかな「道」が開けていく。
「……波が、死んでる……?」
転覆し、救助艇を待ちながら水面に浮いていたカイが、呆然と呟いた。
最新のAI制御でも予測不可能な江戸川の牙を、あのおっさんは、古ぼけたアナログの感覚だけで「無力化」している。
「サラリーマンを、なめるなよ……」
ヘルメットの中で、健太は静かに吐き捨てた。
誰よりも静かに、しかし誰よりも鋭く。健太のボートは、荒れ狂う第一ターンマークを、まるで定規で線を引いたような最速のラインで抉り取った。
岸壁でその光景を見ていた石原校長が、満足げに鉄の耳を引っ張った。
「見たか、鉄。ありゃあ、根性で走ってるんじゃねえ。数字で波を殺す『精密機械』だぞ。……いや、あるいは『死神』の再来か」
健太が桟橋に戻ってきたとき、静寂が彼を迎えた。
先ほどまで彼を「おじいちゃん」と呼んでいた少年たちの目は、畏怖に染まっている。
健太は息一つ切らさず、ヘルメットを脱ぐと、再び眼鏡をかけ直した。そして、濡れたスーツの袖を気にするように払い、誰に言うでもなく呟いた。
「本日の教習コスト、想定内。……次は、もう少し出力を上げても良さそうだな」
三十五歳の研究生。
江戸川の泥を啜りながら、彼は確実に、水上の王座へと続く「計算式」を完成させつつあった。




