錆びついた咆哮
二〇四〇年、神奈川県横浜市。
二十一時を回ったオフィスビルの一角で、佐伯健太は最後の一行を入力し終えた。ディスプレイに映る貸借対照表の数字が、完璧に整合する。その瞬間だけが、今の彼に与えられた唯一の平穏だった。
かつて、深夜の湾岸道路を「雷神」として咆哮させた男の面影は、今や分厚い眼鏡の奥に隠されている。猫背気味の背中、手入れの行き届いた地味なスーツ。どこからどう見ても、三十五歳の冴えない経理マンだ。
退社を告げる電子音が無機質に響く。
駅へ向かう道すがら、鞄の中で硬質な音がした。いつものコンビニ弁当と、届いたばかりの『三気筒・水冷式からくり点火プラグ』がぶつかる音だ。
現代の競艇界では、AI制御の電磁推進が主流だ。健太が趣味でいじっている「からくり艇」は、蒸気機関と内燃機関を組み合わせた、いわばロストテクノロジーの産物。効率が悪く、騒音を撒き散らす骨董品だ。
「佐伯さん、またそれ弄ってるんですか?」
背後から声をかけてきたのは、後輩の佐藤だった。
「……ただの確認だ。機械は正直だからな、数字と同じで」
「相変わらず堅いっすね。あ、そうだ。今度江戸川で、旧式からくり艇のデモ走行イベントがあるんですよ。佐伯さん、昔バイクやってたって言ってたじゃないですか。一緒に行きません?」
「……競艇か。興味ないな。ギャンブルは期待値の低いリソースの浪費だ。身を滅ぼすぞ」
健太は無表情を貫き、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。佐藤の「またまたー」という軽い笑い声を背に、駅のホームへと急ぐ。
だが、帰宅途中の満員電車の窓に映る自分の顔は、ひどく泥のように濁っていた。
吊革を握る右手の平に、まだあの感触が残っている。一ミリのスロットル操作で、世界が引きちぎれるような加速。暴力的なまでの熱狂。
(江戸川……日本屈指の難水面か)
帰宅し、レンジで弁当を温める三分間。健太は我慢できずにスマホを取り出し、江戸川競艇場の潮目と風向きを確認し始めていた。
週末。江戸川競艇場を吹き抜ける風は、冬の鋭さを孕んでいた。
本来はプロの戦場だが、今日はファン感謝祭。旧式の「からくり艇」を体験できるコーナーには、物珍しそうな親子連れが並んでいる。
「ほら、佐伯さん! 順番ですよ!」
佐藤に半ば強引に背中を押され、健太は貸し出されたヘルメットを手に取った。
目の前に係留されているのは、一九〇〇年代の蒸気機関を模したような、真鍮のパイプが這い回る無骨なボートだ。現代のスマートな艇とは似ても似つかない、鉄の塊。
(……やめときゃよかったな)
苦笑しながら、健太は眼鏡を外し、ネクタイを緩めてコクピットに腰を下ろした。視界は少しぼやけるが、代わりに鼻孔を突くオイルの匂いが、脳の奥底に眠る記憶を呼び覚ます。
「いいっすか佐伯さん、エンジン始動は右手のレバーを――」
「……わかっている。静かにしてろ」
佐藤が言葉を失った。
健太の声が、先ほどまでの「経理部の佐伯さん」のものではなかったからだ。それは、数多の抗争をくぐり抜けてきた男の、低く重いプレッシャーを帯びていた。
スターターを引いた瞬間、眠っていた旧式エンジンが爆ぜた。
バラバラと、不規則な振動が船体を揺らす。ピストンが悲鳴を上げ、蒸気が漏れる。
だが、健太の指先がスロットルに触れた瞬間、その「ノイズ」が変化した。
(……同調させるんだ。0.1ミリの遊び、いや、その先か)
暴走族時代、死線の中で磨き上げた右手の感覚。それを、一円単位の誤差を許さない経理マンとしての緻密さが研ぎ澄ます。バラバラだった振動が、一点の旋律へと収束していく。
「出走だ」
バチンッ、と空気が弾ける音がした。
次の瞬間、ボートは水面を滑る矢となった。
加速のGが、緩んでいた健太の腹筋を貫く。だが、彼は怯まない。むしろ、広すぎる肩幅を丸め、最も空気抵抗の少ない姿勢――かつての「雷神」のフォームを無意識に取っていた。
「な、なんだあの加速……!? 調整ミスか!?」
運営スタッフが叫び、観客席の野次馬たちが身を乗り出す。
体験走行の枠を遥かに超えた速度域。前方に迫るのは、江戸川の名物、荒い波がうねる第一ターンマークだ。
並の人間ならここで恐怖し、スロットルを戻す。だが、健太の瞳には、荒波の合間に見える一本の「航路」が、明確な数字の羅列として視認できていた。
(マブイ全開……じゃない。ここで三割カット、出口で一気に『全額投入』だ)
経理マンとして培ったリソース管理の思考が、レースの最適解を弾き出す。
左手で舵を切り、右足で船体の傾きを抑え込む。
ボートが水面から浮き上がり、空中を舞うような超高速の旋回。飛沫がスーツを濡らし、捲り上がった袖口から、かつての勲章――龍の刺青が、一瞬だけ鋭く覗いた。
「……ッシャア!」
ターンを終え、直線に差し掛かった瞬間、健太はヘルメットの中で咆哮した。
「サラリーマンを、なめるなよ……!」
その叫びは、自分を縛り付けていた日常への訣別だった。
ゴール板を駆け抜けたとき、江戸川の観客席は静まり返っていた。
ただのサラリーマンが、プロ顔負けの、いや、プロでも不可能なほど「精密すぎる旋回」を見せつけたのだ。それは、狂気と計算が同居した、至高の芸術だった。
ボートを降り、ヘルメットを脱いだ健太の顔には、夕方の青髭と、そしてかつての「伝説の総長」の鋭い眼光が宿っていた。
呆然と立ち尽くす佐藤を横目に、健太は濡れたネクタイを乱暴に外す。
「……悪くないな。からくりってのも」
この日、三十五歳の経理マンの運命は、一八〇度転換した。
帰宅した健太の机の上には、もはや古い部品などは置かれていない。
代わりにあったのは、一通の書類。
『大宮機艇教習所・入所願書』
それを書き込む自分の手が、まだ熱く震えているのを、健太は自覚していた。
かつての雷神は、今、水面という名の戦場で、新たな「決算」を始めようとしていた。




