経理部の夜は、教習所の夜より深い
第3話 経理部の夜は、教習所の夜より深い
消灯時間を告げる無機質なチャイムが、コンクリート造りの寮内に響き渡った。
『関東機艇操縦士養成校・江戸川分校』、三〇二号室。六畳一間の空間に二段ベッドが置かれた殺風景な部屋だ。通常なら十代の若者たちが夢や不安を語り合う場だが、この部屋に流れる空気は、どこか凍りついた北向きの決算室に似ていた。
「……おい、おっさん。いつまで起きてんだよ。消灯時間は過ぎてんだろ」
二段ベッドの上段から、カイが不機嫌そうに顔を出した。
下段では、佐伯健太が卓上ライトの限られた光を頼りに、眼鏡の奥の鋭い眼光をノートに注いでいた。ペン先が紙を走るカリカリという乾いた音だけが、部屋の静寂を刻んでいる。
「明日も五時起きなんだぞ。お前みたいなオジサンの体に徹夜はキツいだろ。さっさと寝ろよ」
「気にするな。……あと一期分の数値を確定させれば終わる」
「はあ? 何の話だよ。ここは養成校だぞ、会社じゃねえんだ」
カイが苛立ち紛れに身を乗り出し、健太の手元を覗き込んだ。そこにあったのは、およそ競艇の教習生が書くものとは思えない異様なデータ群だった。
一日の風速、潮位、水温の変動グラフ。それらに紐付けられた練習艇の燃料消費効率。そして、今日の寮の献立から算出された摂取カロリーと栄養素、果ては塩分濃度までが、経理職時代の癖そのままの精緻な帳簿形式でびっしりと手書きされていた。
「カイ。……お前、今日の夕食に出た『アジフライ』をどう評価した?」
唐突な問いに、カイは毒気を抜かれたように瞬きをした。
「……はあ? アジフライ? サクサクして普通に美味かっただろ」
「違う」
健太は眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ、カイを冷徹に射抜いた。その目は、億単位の不透明な資金流出を見つけ出した時のベテラン監査役より恐ろしい。
「あれは衣が厚すぎた。脂質の過剰摂取による消化器官への血液集中、およびそれに伴う自律神経の低下計算が入っていない。明日朝の気圧変動下において、あの油分は明朝の集中力と反射速度をコンマ五%確実に削ぐ」
「な、何言ってんだよ……。たかがアジフライ一つで……!」
「さらに、今日の江戸川のうねりは周期が一定ではなかった。第十レース、お前の艇が第二マークで三十センチ外側に膨らんだ原因を、お前は波のせいにしたな」
健太はノートの一節を指し示した。
「波ではない。昼食に摂取した『大盛りカレー』だ。内臓が処理しきれなかった重形物が、三・五Gの最大旋回Gと共振し、お前の体幹軸を左に四ミリずらした。そのわずかな『内臓の偏り』が、右手のスロットルワークにコンマ一ミリの狂いを生じさせたんだ。……貸借が合っていない。お前は自分の肉体という最大資産を、あまりに杜撰に管理しすぎている」
「……っ、妄想だろ! 根拠あんのかよ!」
カイが顔を真っ赤にして叫ぼうとしたその時、廊下から地響きのような重い足音が近づいてきた。
扉が音もなく開き、逆光の中に石原校長の厳ついシルエットが浮かび上がる。足元では愛犬の『鉄』が鼻を鳴らしていた。
「夜更かしして何をしているかと思えば……。ほう、健太。これをお前が一人で算出したのか」
石原が健太のノートをひったくるように手に取った。
そこには、明日の大潮と荒川からの河川流入が重なった際の、進入角度ごとの失速確率と最適旋回ラインが、プロの予想屋ですら絶句する精度で緻密に弾き出されていた。
「……石原校長。聞いてくださいよ、こいつバカなんです。飯の油がどうとか、わけわかんないオカルトを……」
「バカはお前だ、カイ」
石原の声が、部屋の温度を瞬時に氷点下まで下げた。石原は鉄のリードを短く持ち直し、冷酷な視線をカイに向けた。
「このおっさんは、自分の体の『燃費』と『重心』まで、コンマ単位で管理してやがる。いいか。競艇はマシンの勝負だが、それを操るのは『肉体』という名の精密機械だ。食い物一つ、睡眠一分を管理できない人間に、時速八十キロの極限状態でミリ単位の制御ができるわけがねえ」
石原はノートを健太に投げ返すと、ニヤリと不敵に笑った。
「健太。お前のその『帳簿』……明日の第一マークで、その正しさを証明してみせろ」
「了解しました。……既に『利益』が出る見込みは立っています」
健太は静かにノートを閉じ、眼鏡を外した。
その瞬間、六畳間の空気が爆ぜた。
先ほどまでの理屈っぽい「経理マン」の気配は霧散し、かつて数千人の暴走族を統率し、死線の上で旗を振った「雷神」の圧倒的な殺気が部屋を満たした。威圧感に圧し折られ、カイは息を止めた。
「カイ。……明日の第一レース。第一マーク、俺は内を六十センチ空けてやる。入れるもんなら入ってみろ」
「……あ?」
「ただし、お前の『計算』が合っていればの話だがな。……おやすみ」
健太はそれだけ告げると迷いなく毛布を被り、数秒後には規則正しい静かな寝息を立て始めた。
残されたカイは、嫌な汗を拭いながら健太のノートを盗み見ようとしたが――そこに並んでいたのは、もはや解読不能な「数値の曼荼羅」と、幾何学的に美しすぎるボートの流体軌跡だった。
翌朝。
宣言通り、健太は朝食の油物を一切排し、白湯とわずかな果糖だけで代謝を完全に立ち上げた。
支給された作業着の折り目を完璧に整え、襟を正して誰よりも早く桟橋に向かうその背中には、昨日までの猫背のサラリーマンの面影はない。
戦場へ向かう指揮官の背中だ。
桟橋に係留された旧式艇に向かい、健太は静かに呟く。
「本日の予実管理、開始。……まずは第一マークで、不良債権を一人清算するか」
春の江戸川の冷たい風が、佐伯健太の闘志という名の火花を、静かに、しかし激しく煽り始めていた。




