経理部の夜は、教習所の夜より深い
消灯時間を告げるチャイムが、コンクリート造りの寮内に無機質に響き渡った。
大宮機艇教習所・関東校、三〇二号室。六畳一間の空間に二段ベッドが置かれた殺風景な部屋だ。通常なら若者たちが夢や不安を語り合う場だが、この部屋に流れる空気は、どこか張り詰めた北向きのオフィスに似ていた。
「……おい、おっさん。いつまで起きてんだよ。消灯時間は過ぎてんだろ」
二段ベッドの上段から、カイが不機嫌そうに顔を出した。
下段では、佐伯健太が卓上ライトの限られた光を頼りに、眼鏡の奥の鋭い眼光をノートに注いでいた。ペン先が紙を走るカリカリという音だけが、部屋の静寂を刻んでいる。
「明日も五時起きなんだぞ。マブイ三〇〇〇の老体にはキツいだろ。さっさと寝ろよ」
「気にするな。……あと一期分(四半期分)の推移を確定させれば終わる」
「はあ? 何の話だよ。ここは教習所だぞ、会社じゃねえんだ」
カイが苛立ち紛れに身を乗り出し、健太の手元を覗き込んだ。そこにあったのは、およそ競艇の教習生が書くものとは思えない異様なデータ群だった。
一日の風速、潮位、水温の変動グラフ。それらに紐付けられた練習艇の燃料消費効率。そして、なぜか今日の寮の献立から算出された摂取カロリーと、栄養素の含有量、果ては塩分濃度までが、経理職時代の癖そのままの、精緻なスプレッドシート形式で手書きされていた。
「お前、今日の夕食に出た『アジフライ』……。あれをどう評価した?」
唐突な問いに、カイは毒気を抜かれたように瞬きをした。
「……はあ? アジフライ? サクサクしてて普通に旨かっただろ」
「違う」
健太は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、カイを冷徹に射抜いた。その目は、数億円の使途不明金を見つけ出した時の首席経理部長よりも鋭い。
「あれは、衣が厚すぎた。脂質の過剰摂取による消化コストを計算に入れていない。今日のような気圧変動が激しい夜、あの油分は明朝の集中力を〇・五%確実に削ぐ」
「何言ってんだよ……。たかがアジフライ一つで……!」
「さらに今日の江戸川のうねりは、周期が一定ではなかった。第十レース、お前のターンが第二マークで三〇センチ外側に膨らんだ原因を、お前は波のせいにしたな」
健太はノートの一節を指し示した。
「波ではない。昼食に摂取した『大盛りカレー』だ。内臓が処理しきれなかった重形物が、最大旋回時の遠心力によってお前の重心を左に四ミリずらした。そのわずかな『内臓の揺れ』が、右手のスロットルワークに〇・一ミリの狂いを生じさせたんだ。……貸借が合っていない。お前は自分の肉体という資産を、あまりに杜撰に管理しすぎている」
「……っ、妄想だろ! 根拠あんのかよ!」
カイが顔を真っ赤にして叫ぼうとしたその時、廊下から地響きのような重い足音が近づいてきた。
扉が音もなく開き、逆光の中に石原校長の厳ついシルエットが浮かび上がる。その足元では、愛犬の『鉄』が鼻を鳴らしていた。
「夜更かしして何をしているかと思えば……。ほう、健太。これをお前が一人で算出したのか」
石原が、健太のノートをひったくるように手に取った。
そこには、明日の大潮と利根川からの河川流入が重なった際の、進入角度ごとの「失速確率」と「想定利益(ターン速度)」が、プロの予想屋ですら絶句する精度で書き込まれていた。
「……石原校長。聞いてくださいよ、こいつバカなんです。飯の油がどうとか、わけわかんないオカルトを……」
「バカはお前だ、カイ」
石原の声が、部屋の温度を数度下げた。石原は鉄のリードを短く持ち直し、射抜くような視線をカイに向けた。
「このおっさんは、自分の体の『燃費』と『重心』まで、円単位で管理してやがる。いいか。競艇は『からくり』の勝負だが、それを操るのは『肉体』という名の精密機械だ。食い物一つ、睡眠一分を管理できない人間に、時速八〇キロの極限状態でミリ単位の制御ができるわけがねえ」
石原はノートを健太に投げ返すと、ニヤリと不敵に笑った。
「健太。お前のその『帳簿』……明日の第一マークで、その正しさを証明してみせろ」
「了解しました。……既に『利益』が出る見込みは立っています」
健太は静かにノートを閉じ、眼鏡を外した。
その瞬間、六畳間の空気が爆ぜた。
先ほどまでの理屈っぽい「経理マン」の顔は霧散し、かつて数千人の暴走族を統率し、死線の上で旗を振った「雷神」の圧倒的な威圧感が部屋を満たした。
「カイ。……明日の第一レース。第一マーク、俺は内を六十センチ空けてやる。入れるもんなら入ってみろ」
「……あ?」
「ただし、お前の『計算』が合っていればの話だがな。……おやすみ」
健太はそれだけ告げると、迷いなく毛布を被り、数秒後には規則正しい寝息を立て始めた。
残されたカイは、冷や汗を拭いながら健太のノートを盗み見ようとしたが――そこに並んでいたのは、もはや解読不能な「数字の曼荼羅」と、幾何学的に美しすぎるボートの展開図だった。
翌朝。
宣言通り、健太は朝食の油物を一切排し、白湯とわずかな果糖だけで代謝を立ち上げた。
誰よりも早く桟橋に向かうその背中は、昨日までのような猫背のサラリーマンではない。
自前で持ち込み、深夜に完璧なアイロンをかけた白シャツの襟を立て、戦場へ向かう指揮官の背中だった。
桟橋に係留された練習艇に向かい、健太は静かに呟く。
「本日の予実管理、開始。……まずは第一マークで、不良債権を一人処理するか」
春の江戸川の冷たい風が、佐伯健太の闘志という名の火花を、静かに、しかし激しく煽り始めていた。




