『パグの咆哮・不可視の航跡を追え』
敦賀競艇場、二日目のナイター。
昨夜、佐伯健太に肉薄された沼田一恵は、さらなる「深淵」に潜っていた。
彼女の愛機5号機は、今や水面を滑る音すらしない。ただの「影」が時速80キロで移動しているような、不気味な静寂。
対する健太は、深刻な「マブイ酔い」と闘っていた。
「……っ、クソ。目が、追いつかねえ……」
暗闇に溶け込む沼田の機体。白石のデータも、中島の直感も、気配を完全に断った彼女を捉えることはできない。
その時、ピットのケージの中で、スエが豹変した。
「……フガッ、フガガガッ!!」
いつもは呑気なパグが、裂けんばかりの声で吠える。
ただ吠えるのではない。その短い首を一点に固定し、「不可視の影」が移動する先を正確に追っているのだ。
「……スエ? どうした、何が見えてる……」
健太は気づいた。
パグ特有の、あの大きな瞳。スエは、マブイの波動ではなく、「水面に映るカクテル光線のわずかな歪み」と「空気の震え」を、動物的本能で視覚化しているのだ。
「……そうか。スエ、お前には『見える』んだな。……奴の帳簿外の動きが!」
運命の第11レース
健太はヘルメットを被る直前、スエの頭を撫でた。
「スエ。ピットから俺に教えてくれ。奴がどこに潜んでいるか……その声で!」
コース入り。
1コースに沼田。3コースに健太。
スタートの瞬間、沼田は再び闇に消えた。
並走しているはずなのに、鏡のような水面には波紋ひとつ見えない。
「消えた……。白石さんの言う通り、これは『幽霊』よ……」
2コースの今井玲子が戦慄する。
だが、ピットの最前線で、スエが狂ったように吠え出した。
「ワンッ! ワンワンッ!!(右だ! 右から来てるぞ!)」
「……聞こえるぞ、スエ!」
健太は耳を澄ませた。大歓声とエンジン音の隙間を縫って届く、愛犬の必死の警告。
スエの鳴き声の「指向性」から、健太は脳内に敦賀の3Dマップを展開。
沼田が仕掛けるはずの、コンマ数秒後の「無音の差し」を逆算した。
決着:逆転の決算
「そこだッ!!」
第1マーク。誰もいないはずの空間に向かって、健太はハヤブサを強引に捻じ込んだ。
ハヤブサの船体が、闇の中で沼田の5号機と激しく接触し、火花が散る。
「……ッ!? なぜ、私の位置がわかるの……!?」
沼田の無機質な声に、初めて「恐怖」が混じった。
「……俺の『秘書』が、お前の不正(隠密)を見抜いたんだよ!」
健太はそのまま、沼田の機体を「重石」にするようにして強引に旋回。
スエが吠え続ける方向へ、ハヤブサを全開で解き放った。
「サラリーマンを、なめるなよ……ッ!!」
闇を切り裂くハヤブサの翼。
ゴールラインをトップで駆け抜けたのは、パグの導きを信じた「おじさん」だった。
レース後:最高のササミ
ピットに戻ると、健太は真っ先にスエを抱き上げた。
「……助かったよ、スエ。お前がいなきゃ、今頃海藻の餌食だった」
スエは満足げに、健太の頬をベロベロと舐め回した。
その様子を見ていた沼田一恵は、そっと自分の5号機を降り、スエの前にしゃがみ込んだ。
「……おじさんの犬。……私より、ずっと優秀。……次は、負けない」
沼田はスエの頭を、ほんの少しだけ優しく撫でた。
それをきっかけに、中島和樹や今井玲子、チームスプリンターズの面々までもが、スエを囲んで「勝利の女神」として崇め始める。
「ガハハ! 佐伯、そのパグ、俺たちの支部でスカウトしてもいいか?」
中島が冗談めかして笑う。
福井・敦賀の夜に、おじさんとパグの伝説が刻まれた。
だが、その光景を苦々しく見つめる影が一つ。
……健太の活躍を面白く思わない、東京支部の「ある人物」が敦賀に現れようとしていた。




