雨の決算・データは嘘をつく
2041年5月、平和島。二日目。
予報通りの雨。それも、ボートのシールドを叩きつけるような激しい雨だ。
雨粒がマブイの変換回路に干渉し、出力が不安定になる「ノイズ」が発生する。多くの選手がマブイの出力不足に悩む中、ピットの片隅で、白石悠真が眼鏡の奥の目を光らせていた。
「……気圧1002ヘクトパスカル。湿度95%。雨粒の衝突による抵抗値の増加……。全て計算済みです、佐伯さん」
白石がタブレットを健太に向ける。そこには、昨日の健太の航跡を解析し、雨天時の挙動を予測した「佐伯封じ」のシミュレーション結果が表示されていた。
「昨日のあなたの『差し』は、精密なスロットル操作によるもの。ですが、この雨で水面のμ(摩擦係数)は刻一刻と変化する。……あなたの『指先の感覚』というアナログなデータは、このノイズの中では無力だ」
健太は無言で、ハヤブサの点火プラグを交換していた。
雨に濡れた作業着。眼鏡が曇るのを嫌い、既に眼鏡は外している。
「……白石くん。数字は嘘をつかないが、入力するデータが古ければ、決算書は紙屑になるぞ」
「……強がりを。あなたの敗北確率は、現時点で92%です」
第10レース:視界ゼロの攻防
ファンファーレが雨音にかき消される。
1コースに白石悠真。4コースに佐伯健太。
スタートラインへ向かう中、ビル風と雨が混じり合い、水面には不規則な「叩き波」が発生していた。
(……この感覚。……雨の第三京浜と同じだ)
健太は、ヘルメットの中で目を細めた。
かつて、視界数メートルの中、路面のわずかな滑りを感じ取りながらスロットルを開けた記憶。
白石の計算には「路面の匂い」や「風の湿り気」といった、数値化できない感触が入っていない。
「……スタート!」
白石が1コースから完璧なタイミングで飛び出す。
データの裏付けがある白石は、雨の中でも迷いがない。最短コースをなぞるように1マークへ。
一方、健太は4コースから、あえて白石の「引き波」の中へと突っ込んだ。
「自殺行為だ……! 私の計算では、そこで失速して転覆するはず!」
白石がモニター越しに叫ぶ。
だが、健太はそこで**『からくり点火・雨天調整』**を起動させた。
マブイの出力を上げるのではない。雨粒がエンジンに吸い込まれる周期に合わせて、点火のタイミングを「わざと」外す。
経理マンが、あえて誤差を容認して全体の帳尻を合わせるような、高度なバランス感覚。
「……今だ、ハヤブサ!」
1マーク。白石の艇が雨で視界を奪われ、コンマ数秒、ターンの始動が遅れた。
その刹那。
健太の61号機が、白石が計算で「壁」として利用しようとしていた波の山を、逆にジャンプ台にして飛び越えた。
「サラリーマンを、なめるなよ……ッ!!」
決着:ノイズの向こう側
空中を舞うような超高速の旋回。
白石のシミュレーションにはない「三次元の動き」。
着水した瞬間の衝撃を、健太は暴走族時代に培った膝のクッションで吸収し、そのまま白石の内側を抉り取った。
「ば、馬鹿な……! 計算では、そこは『通行不能』なはずだぞ!」
バックストレッチに出た瞬間、健太のハヤブサが雨を切り裂いて加速する。
白石のデータが弾き出した「正解」は、健太の「経験」という名のイレギュラーによって粉砕された。
ゴール板を駆け抜けたのは、全身ずぶ濡れの、しかし最も熱い魂を燃やした4号艇。
宿舎:計算機の敗北
ピットに戻り、白石は呆然とタブレットを見つめていた。
「……なぜだ。私の計算は完璧だったはずだ……」
健太は濡れたカポックを脱ぎ、タオルで頭を拭きながら白石に近づいた。
「……白石くん。雨の日は、帳簿よりも『現場の匂い』を信じることだ」
健太は、ポケットから取り出した古い、しかし完璧に手入れされた電卓を白石に見せた。
「……1円のズレを直すのは計算機だが、そのズレが『なぜ起きたか』を突き止めるのは、人間だ。……いいレースだったよ」
その時、遠くから霧島麗華の冷ややかな声が聞こえた。
「……あら、データ派の秀才が、おじさんの『勘』に負けたの? 傑作ね」
麗華の瞳には、昨日とは違う、健太への隠しきれない「興味」が宿っていた。
そして、その光景を苦々しく見つめる西貴斗の姿もあった。
東京支部の序列が、雨と共に激しく入れ替わろうとしていた。




