三日目の試練・女王の詰め将棋
第14話 三日目の試練・女王の詰め将棋
二〇四一年、五月。平和島競艇場。予選最終日。
連日の激走と、三十六歳という年齢が突きつける肉体の限界。それが、ついに佐伯健太の「帳簿」に致命的な欠損を及ぼし始めていた。
「……っ、う……」
早朝のピット。愛機『ハヤブサ』のキャブレターを点検していた健太は、突然の激しい眩暈に襲われ、艇体に力なく縋り付いた。
過給振動症(過圧ノイズ)。低出力のからくり機関を連日無理やり限界高回転で回し続けたことで、高周波の不快な振動が中枢神経を苛み、視界が二重に歪んでいる。精密なスロットル操作を司る指先が、自分の意志に反して小刻みに震えていた。
「あら。もうキャパオーバーかしら? 経理部の予算繰りと同じように、ご自分の肉体の残り資源も管理しておくべきだったわね」
凛とした冷ややかな声とともに、霧島麗華(二十三歳)が歩み寄ってきた。
黒髪ロングを海風になびかせ、凛然と立つ彼女の身体からは、スラスト出力二万二千を超える最新鋭『リニア・ベクター』の強固な圧が規則正しく放たれている。
「……霧島、さん。……余計なお世話ですよ。まだ、最終決算までは時間がある」
健太は胸ポケットの眼鏡ケースの感触を確かめ、蒼白な顔に不敵な笑みを浮かべた。
「あなたのレースは、結局『執念』という名の不確定な博打。論理を愛する私には、その一歩先が見えているわ。今日のレース、あなたには一手も動かせないまま、完璧な詰を差し上げます」
平和島の空は抜けるように晴れ渡っていた。しかしその美しさとは裏腹に、ビル風はカミソリのような鋭さを増し、水面を複雑な「うねり」へと変容させている。
第一コースに霧島麗華(白のカポック)。第三コースに佐伯健太(赤のカポック)。
「プロの壁」を教えるかのように、麗華はスタート前から完璧なポジショニングを見せた。
「……スタート!」
スリット通過。麗華の一号艇が、まるで定規で線を引いたような無駄のない直線を描いて第一マークへ突っ込む。
健太も食らいつこうとするが、身体の痺れの影響で脳の指令がコンマ数秒遅れる。その微かなタイムラグを、女王は見逃さなかった。
「終わりよ、おじさん」
麗華のターンは、もはや恐怖すら抱かせる完璧な芸術だった。
力でねじ伏せるのではない。水面の流れ、風のベクトル、そして他艇の動心を完全に支配し、他者が入り込む隙間を分子レベルで封殺する「鉄壁の旋回」。
健太の赤のカポックの三号艇が内側を突こうとするたび、麗華の残した重い引き波が強固な壁となり、ハヤブサを情け容赦なく外側へと弾き出した。
(……くそっ、ラインを……完全に読まれている……!)
第一マークを終えて、麗華は独走態勢。健太は三番手。このままの順位では、準優勝戦への進出条件に「一円」足りない。
二周目、第一マーク。
健太の視界はさらに霞み、周辺視野が真っ黒に塗りつぶされそうになっていた。心臓は壊れたドラムのように早鐘を打ち、限界を超えた身体が悲鳴を上げている。
だが、その意識が遠のく極限状態の中で、健太の脳裏に「あの日々」の記憶が鮮明に交錯した。
(……締め切り直前の深夜二時。予算の一円が合わず、胃を焼くようなコーヒーを流し込みながら、何度も何度も帳簿を捲り直したあの夜。……仲間を失い、自分の人生に絶望しながらも、数字を合わせることだけで自分を繋ぎ止めていた、あの地獄のような静寂……)
あの絶望に比べれば、この程度の眩暈など、大したリスクではない!
健太は、ハヤブサのからくり機関のセーフティを司る限界弁を、脳内で強引に「解除」した!
ガガガガガッ!
ハヤブサのエンジンが断末魔のような高音を上げ、艇体がバラバラに砕け散らんばかりに激動する!
「……これは、俺がドブに捨ててきた十年の……『残業代』だ!!」
健太は麗華が「論理的に絶対にありえない」と踏んでいた、最も波の荒い最短コースへとハヤブサの機首を強引にねじ込んだ!
それは麗華が構築した優雅な将棋盤を、盤ごと叩き割るような泥臭く野蛮な突撃!
「な……ッ!? 正気なの!? そこで全開なんて、計算(物理)が成立しないわ!」
麗華が驚愕に目を見開く。
健太は荒波に叩かれ、艇から放り出されそうになりながらも、コンタクトレンズの瞳を剥き出しにして感覚を研ぎ澄ませた。右手のスロットル操作は、もはや思考を介さない「生存本能」の領域。
麗華の完璧なターンの、さらにその最内。
激しい水飛沫の向こう側に、ハヤブサの鋭い眼光が、復讐者のように煌めいた!
ゴール直前。
先行する麗華の一号艇に、泥塗れの、今にも沈みそうな赤のカポックの三号艇が鼻差で凄まじく肉薄する!
平和島の電光掲示板。写真判定の結果を待つ数秒の間、場内は息をのんで静まり返った。
表示されたのは――。
「……同着!?」
一と三。二つの数字が同時に点滅する。
女王の完璧な計算を、死に体の「おじさん」による文字通りの命懸けの突撃が、土壇場で捉えたのだ。
ピットに戻り、艇を降りるなり健太はその場に膝から崩れ落ちた。冷たいコンクリートの感触が、熱暴走した体温に心地よい。
「……はぁ、はぁ……。……計算、合いましたか……霧島さん」
麗華はヘルメットを脱ぎ、悔しさと困惑に顔を歪めて健太を見下ろした。
だが、その冷徹だった瞳には、明確な敗北感と、そして得体の知れない「畏怖」が宿っていた。
「……信じられない。あんな不合理で、非効率な走りで……。あなた、本当にただの人間なの?」
麗華はそう言い捨てて立ち去ろうとしたが、一歩足を止め、背中を向けたまま震える声で呟いた。
「……準優勝戦、楽しみにしてるわ。……あなたの壊れかけの『帳簿』が、いつまで保つのか。私が直接、引導を渡してあげる」
その言葉には、女王が初めて認めた「対等なライバル」への、屈折した敬意が混じっていた。
遠くで西貴斗や白石悠真が、健太の異常な追い上げに言葉を失っている。
「……よし、鉄。……次は、準決勝だ。……まだ、赤字にはさせない」
駆け寄ってきた石原校長と、愛犬の『鉄』が差し出した冷たいタオルに支えられ、健太は立ち上がり、ヘルメットを脱いで眼鏡を掛け直した。
そのレンズの奥で、三十六歳の新人の瞳は、かつてないほど冷徹に、そして力強く燃え上がっていた。




