『伏魔殿の洗礼』
2041年4月。東京支部事務所。
江戸川の濁流を間近に臨むその建物は、プロレーサーたちの野心とマブイの残滓が渦巻く、一種の聖域だった。
健太は地味なグレーのスーツ(元経理部の正装だ)に身を包み、受付でライセンスを提示した。
「……本日よりお世話になります。新人の佐伯健太です」
その瞬間、ロビーの空気が一変した。
「……へぇ。例の『おじさん』って、あんたのこと?」
長い脚を組み、ソファにふんぞり返っていたのは、霧島麗華だった。モデルのような美貌に、高圧的な視線。その背後からは、20,000超えのマブイの圧が、目に見えないプレッシャーとなって健太を襲う。
「36歳でデビューなんて、会社のリストラ対策にでもなればいいけど。ここは将棋盤の上と同じ。あなたみたいな『歩』は、一歩も進めずに食われるのがオチよ」
「……ご指導、痛み入ります。ですが、歩も成れば『金』になりますから」
健太が眼鏡を押し上げ、淡々と答える。その横を、派手な金髪を揺らした火野龍也が肩をぶつけながら通り過ぎた。
「ケッ、理屈くせぇんだよオッサン! あんたの伝説なんて過去の話だ。今は俺たちの時代なんだよ!」
さらに奥からは、巨大な壁のような男――黒澤剛が、顔の傷を歪めて笑いながら現れた。
「龍也、よせ。……佐伯、お前のツラ、どっかで見たと思ってたが……厚木の『雷神』か。随分と丸くなったじゃねえか」
「……黒澤さん。お久しぶりです。今はただの新人です」
その一角で、タブレットを叩きながら冷徹な視線を送る白石悠真が呟く。
「佐伯健太。コアマブイ3,000。統計上、1年以内の引退確率は87%……。データにないイレギュラーは排除しますよ」
そして、ロビーの中央に立つ一人の男。
銀縁眼鏡の奥で、全てを見下すような冷たい瞳をした貴公子、西貴斗だ。
「血統のない者が、ハヤブサ(61号機)を預かるとは。石原校長も焼きが回ったものだ。……佐伯さん、僕の『引き波』を拝む光栄を、初戦で与えてあげましょう」
最初の戦場:宿舎の夜
プロとしての生活が始まる。
同じ支部の同期である大道寺カイだけが、健太の横でホッとしたような顔を見せた。
「佐伯さん……相変わらず四面楚歌っすね。でも、あの西って野郎、相当ヤバイっすよ。マブイの量がバケモンだ」
「……ああ。だが、経理部で10億の計算ミスを見つけるよりは、マシな状況だ」
健太は、狭い宿舎の部屋で、愛機『ハヤブサ』のスペック表を広げた。
20,000、30,000と並ぶ怪物たちの数値。
対する健太は3,000+15,000。
だが、健太の指先は、既に西や麗華の「癖」を、過去のレースデータから弾き出していた。
(……西はパワーに頼る分、ターン出口の0.05秒に『隙』が出る。麗華はラインを重視しすぎて、荒波に弱い)
健太は眼鏡を外し、サポーターで隠した腕の刺青を、じっと見つめた。
サラリーマンとして死んでいた10年間。
その間に溜め込んだ「執念」が、今、61号機のピストンを叩こうとしている。
「……サラリーマンを、なめるなよ」
翌朝。
平和島競艇場。プロデビュー初戦。
出走表の1コースには『西 貴斗』、そして6コースの大外には『佐伯 健太』。
東京支部の「怪物」と「おじさん」が、早くも激突する。




