第23話 オーバーライド
巨腕が振り下ろされるたび、大気がうなり、地面が抉れる。
ウィンは咄嗟に展開した光壁を前へ押し出し、迫る衝撃を必死に受け止めていた。
鈍い衝撃音が耳をつんざき、全身の骨がきしむ。
砕けた土塊が弾丸のように飛び散り、頬をかすめた。
「……っ!」
額に冷や汗が伝い落ちる。光の壁はひびを広げ、今にも崩れそうだった。
『解析完了。周囲にエーテル反応はありません。オーバーライド・モードに移行します』
頭の奥に、澄んだ声が落ちる。
直後、視界の端が淡い光に染まり、細かな粒子が渦を巻いて人影を形作っていった。
白銀の髪を揺らす少女――ステラだ。
蒼い瞳は水面のように澄み切り、胸の前で静かに両手を重ね、彼を見つめている。
その姿は幻のように儚いのに、ひとつの確信を帯びた気高さを纏っていた。
ウィンの心臓がわずかに跳ねる。だが、声を発する暇はない。
「……はやくっ!」
彼の叫びに応えるように、ステラはわずかに微笑んだ。
『ルートアクセス。……それではウィン様、お身体をお借り致します』
ステラはゆるやかに腰を折り、両手を胸の前に添えたまま、静かに頭を垂れる。
光の粒子が一斉にほどけ、彼女の姿が淡く揺らめく。
「……え? それって、どういう――」
次の瞬間、光は奔流のようにウィンの体へと溶け込み、背筋を駆け抜ける冷たく鋭い感覚に瞳が大きく見開かれた。
――グォォオオオォンッ!!
ノクスベアが大地を揺るがす咆哮とともに巨腕を振り下ろした。
パリィィィン!
光壁は粉砕される。凶悪な一撃が直撃したかに見えた瞬間――。
ウィンの体は紙一重で軌道を外れていた。
肩をわずかにひねっただけの最小動作。
まるで軌道を事前に演算していたかのような正確さだった。
砕け散った光の残滓の中、ウィンの姿は変貌を遂げる。
黒髪は白銀に染まり、蒼い瞳が淡い粒子を散らして光を映す。
その立ち姿からは、少年らしさは消え失せ、無機質な冷徹さが漂っていた。
『オーバーライド・モード活動限界まで、残り230秒』
剣が振り上げられ、光が刃を伸ばす。分厚い黒毛と皮膚が裂かれ、赤黒い血が飛沫を描いた。
グゥァァッ!
獣の悲鳴が響くより早く、次の一手。
剣に風が纏われ、突きが繰り出される。空気が刃と化し、射程を伸ばして脇腹を断ち切った。
(……身体が勝手に…!)
ノクスベアが憤怒の咆哮を上げ、両腕で大地を叩き割る。
ドゴォォンッ!
土塊が宙に舞い上がる。
――が、その瞬間、光壁が瞬時に展開され、飛来する破片を弾いた。
そして防御の動作が終わるよりも早く、足元に土が隆起した。
ゴゴゴッ……!
跳躍のためだけに計算された傾斜。
ウィンの体は迷いなくそこへ踏み込み、跳ね上げられるように宙へと舞い上がる。
空中に舞い上がった標的を逃すまいと、巨腕がせまる。
だが、あらかじめ予測していたかのように展開された光壁を蹴りつけ、空中で強引に軌道を変える。
その一連の動きには一切の無駄も逡巡もなく、定められた演算式をなぞるような精密さがあった。
グォォオッ!
見上げたノクスベアの巨体。その肩口へと剣が突き込まれる。
切っ先から炎が舞い上がり、黒毛を焦がして肉を焼いた。
ギャオォォッ!
苦しみに悶えたノクスベアがウィンを振り落とそうと暴れ、
ウィンはノクスベアを踏み台にし大きく距離を取る。
踏み込みの瞬間、足元に雷光が散り、巨獣の筋肉を痺れさせた。
巨体がわずかに硬直する。
その瞬間、ウィンの体から影が揺らめき、二つの残像が左右に飛び出した。
――錯覚のように生まれた幻影が、ノクスベアの目を惑わせる。
グォオオオッ!
巨腕が振り抜かれ、幻影が霧散する。だが、本体はすでに別の軌道へと動いていた。
ドゴッ、ドゴッ――!
大地を穿つように拳大の石が次々と浮かび上がる。
宙に舞った石弾は回転しながら削れ、瞬く間に細身の弾丸のような形へと変じていった。
その表面を雷光が纏い、バチバチと火花を散らす。
次の瞬間――。
バシュバシュゥゥゥンッ!!
数発の石弾が、雷に引きずられるような轟音を残して射出された。
空気が焼け裂け、閃光が一直線に奔る。
ドガァァァンッ!
一発がノクスベアの胸を撃ち抜き、厚い毛皮と筋肉を抉る。
続く二発、三発が肩と腹に食い込み、衝撃とともに肉を穿った。
赤黒い血が滝のように噴き出し、ノクスベアの体が大きく揺らぐ。
「グオォォォォッ!」
苦悶の咆哮が森を震わせ、木々の枝葉がざわめきに散った。
だが――まだ死んではいない。
赤く光る瞳が狂気を帯び、なおも獲物を食らおうと牙を剥く。
巨体が前のめりに突進してきた。
ウィンの体は、一切のためらいなく剣を構えていた。
刃に風が集まり、螺旋を描いて纏わりつく。
空気が鋭い唸りをあげ、刃渡りは目に見えぬほどに延長される。
――ヒュオオオオッ!
ノクスベアの爪が横薙ぎに迫る。
その瞬間、ウィンの体は一歩も退かず、逆に踏み込んだ。
風をまとった剣が閃光のごとく横へと奔る。
ズシャァァァァァッ!!
圧縮された風の唸りとともに、分厚い首筋が一息に断たれた。
風の刃が切り裂いた軌跡に、血飛沫が弧を描き、重い巨体がそのまま慣性に引かれて地へ崩れ落ちる。
ドガァァァァンッ!
地鳴りのような音が森を揺らし、土煙が空へ舞い上がった。
切り離された首が、しばしの間、赤い光を宿したまま虚空を睨んでいたが――
やがて光は消え、泥に沈むように力を失った。
森を覆っていた圧倒的な威圧感は、すでに霧散していた。
その中で、なお白銀の髪を揺らすウィンの体は一切の動揺を見せず、剣を下ろしていた。
瞳に宿る蒼光は機械のように冷たく、ただ戦果を確認するかのようにノクスベアの亡骸を見下ろしていた。
『敵性反応、消失確認。』
頭の奥で、澄んだ声が冷静に響く。
『オーバーライド活動限界、残り――10秒。』
光を纏っていた髪が徐々に色を失い、蒼の瞳がかすかに揺らめき始める。
『3……2……1――』
最後の響きとともに、白銀の輝きは霧散した。
髪は再び黒へと戻り、瞳から蒼光が消え失せる。
力を失った糸が切れるように、ウィンはその場に片膝をついた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
荒い息が喉からこぼれる。全身が鉛のように重い。
自分の体を動かせるのに、つい先ほどまで“自分ではなかった感覚”がまだ皮膚の裏に残っている。
そのとき――淡い光がウィンの胸元から立ち昇った。
きらめきは人の輪郭を形づくり、やがてひとりの少女の姿へと収束する。
白銀の髪に蒼の瞳。ステラだ。
彼女は静かに両手を胸の前で重ね、深く一礼する。
『敵性反応の排除に成功しました。お身体を返却いたします。』
その声はどこまでも冷静で、しかしどこか安堵がにじんでいた。
ウィンは荒い呼吸を整えながら、目の前に現れたステラに問いかけた。
「……ステラ、今の……いったい、何を……」
ヴィジョンは静かに首を振り、微笑を浮かべる。
『ご説明は後ほど。――エーテル残量は限界値に到達しました。これよりスリープモードへ移行します。再起動は13時間。すぐに安全な場所へ移動してください。』
淡い光がふわりと揺れ、ステラの輪郭が薄れていく。
消えゆく直前、その蒼い瞳が真剣にウィンを見据え、光の粒となって消え去った。
森には再び、風のざわめきと血の匂いだけが漂う。
――残されたのは、膝をついたまま荒い息をつくウィンと、倒れ伏した巨獣の亡骸だけだった。




