後日談 第三話
それからのトスイは、至って普通だった。
夕食の時、公衆浴場へ行く時、部屋の真ん中に持ってきた衝立を挟んで夜眠りにつく時も、何事もなく、全てがいつも通りのように見えた。
(でも、きっとそうじゃない)
夜の帳が下りた部屋の中、ベッドに潜ったアニタは静かに考える。
『……もうあんまり、ひどくしたくなるようなこと言うなよ』
そう言われた後、結局アニタは上手く言葉を返せなかった。言葉を探してまごついているうちにトスイが夕食に誘ってくれて、その後は先に述べた通りだ。
あの時、自分は彼になんと返せばよかったのだろう。貴方になら何をされてもいいと、ひどくされたってかまわないと、そう自身を委ねればよかったのだろうか。
(……けど、それって何だか、トスイさんに私を全部なすりつけてるみたいだ)
アニタだって、男女の機微にまったく疎いわけではない。妖艶な気配を察知できないほど鈍くはないつもりだし、前にトスイの家に行った時も同じようなことをされて、前回も今回も、彼に手加減してもらったことも分かっている。
分かっているからこそ、彼の行動の意味を、その背景を、正しく理解しておきたいとアニタは思う。あの捻くれた性格の男を相手にするのだ。何も知らないまま隣にただ並ぶだけでは駄目で、きっと足りない。
アニタは寝返りを打って、衝立の隙間からわずかに覗く、寝そべる男の姿をじっと見つめた。
(……“大事にする”って、難しいんだな)
難しいし、そもそも明確な正解がない行為だ。ただの好意の押し付けにだってなり得る。
けれど、相手にそうしたいと願う気持ち自体は決して間違いじゃないはずだ。難しいのなら尚のこと、相手をよく見て、話を聞いて、試行錯誤を重ねて、全力でぶつかっていくしかない。
明日はもっと、上手くやろう。もしトスイの手が汗まみれになった時はスマートにハンカチを差し出してやって、もしまた耳に噛みつかれた時はこちらも噛みつき返してやるのだ。
そんな決意を胸に、アニタは怒涛の一日目を終えた。
次の日。
予定通り明朝に宿を出たアニタ達は、フリエラ行きの乗合馬車へと乗り込んだ。
このまま街道沿いに進んでゆき、昼過ぎにはフリエラの街へと到着。店長を訪ねて、今晩は店の二階に泊まらせてもらう予定になっている。
ガタゴト揺れる馬車の座席にトスイと隣り合って腰掛け、アニタは朝陽に照らされた街並みを眺めた。
大通りの方では朝市が開かれており、潮風に乗って街の人達のにぎわいがこちらまで聞こえてくる。
赤、青、黄色に緑と原色ばかりの派手な街の外壁も、雲ひとつない青空の下で見ると鮮やかで、明るく美しく見えた。
「……なんだか、見違えましたね。五年前と比べると」
血と鉄が混じったみたいな不気味な色の裏路地に、何かが腐ったような嫌な臭い。そんな場所で行われる裏賭博場や違法取引目当ての客でごった返していた過去を思い出しながら、アニタは感慨深い気持ちで呟く。
隣にいるトスイが、こちらを向く気配がした。
「言ったでしょ、カルタダ周辺の治安が回復したって。ナゼールが捕まって、誰かさんのおかげで奴の私兵団も壊滅状態にされたからね。残党処理も比較的楽に進んだみたい」
「へ、へぇー……」
「今乗ってるこの馬車も、その影響のひとつだね。街の治安良化で街道の警備まで人員が回せるようになったおかげで、便が出せるようになったらしいし」
「あ、ありがたいことですねぇ……」
いやはや、世の中にはすごい人がいたものだ。他の乗客もいるなかでそれ以上詳しく言及する勇気は出ず、アニタは無難にそう相槌するにとどめた。
何か別の話題を……と周囲に視線を走らせれば、広場を通り過ぎる道すがら、そこにできた小さな人だかりがアニタの目に止まる。
どうやらそれは街の子ども達に向けた人形劇のようで、冠をかぶった男性が夜空の下、頭上の白い石に両手をかかげている一場面が見えた。
周りの喧騒と馬車が一瞬で通り過ぎたのも相まって、話し手のお爺さんが何を言っているのかまでは分からなかったが、身振り手振りからして物語の佳境であろうことは何となく伺えた。
「さっきの人形劇、何のお話をしてたんでしょうかね?」
「……あれは多分、“時の石伝説”のひとつだね。時の石は、元はこの地域から生まれたって言い伝えがあるから」
「えっ、そうなんですか!?」
突如として転がり込んできた聞き捨てならない話題に、アニタは隣へ身を乗り出して食いつく。全身から「それもっと詳しく」という思いが滲み出ていたのか、アニタが続きをせがむより先に、トスイはこの地域で伝わる“時の石伝説”を教えてくれた。
――遠い遠いはるか昔、南部のこの地に、ある一人の男がいた。
男には生まれつき不思議な力があり、その力を使えば、彼が望んで叶わぬことなどなかった。海を二つに割ることも、千里を一瞬で飛び越えることも、何千何万の兵を片手一振りで御することも、男にとっては造作もないことであった。世の人々は彼を畏れ、神の御使いだと崇め、一国の王として敬った。
そんなある日、男は一人の女に恋をした。男は彼女に何度も求婚し、自分の妃になるように求めた。けれど、女は決してその求めに応じなかった。
しびれを切らした男は女に尋ねた。どうしたら自分の妃になってくれるのかと。
女は言った。自分はもうすぐ、この世の誰にも辿り着けない、はるか遠い故郷へと帰らなければならない。
けれどもし、故郷へ帰った自分を男が見つけることができたのならば、その時は喜んで男の妻になると。
男は女の出した条件に応じた。この世の誰にも辿り着けぬとも、不思議な力を身に宿した自分は例外だと、そう信じて疑わなかったからだ。
男が頷いたと同時、たちまち女は彼の目の前で姿を消し、“故郷”へと帰ってしまった。
その日から男は女を探した。国中を探した。大陸中を探した。世界中を探した。何年、何十年、何百年かけて、この世のあらゆる場所を探し続けた。
けれど、女の姿はどこにも見つからなかった。
長い長い時の中で、やがて男は人の身を捨て、小さな白い石へと姿を変えた。この世のあらゆる場所を見通せるように、空高くへと上がった。暗闇をくまなく照らせるように、一等強く光り輝いた。
「そして、それが流星となって落ちてきたものこそが、“時の石”である――って言われてるね、言い伝えでは」
滔々とそう語るトスイの声に耳を傾けながら、アニタは人形劇で見かけた一場面を思い出す。
冠をかぶった男性が夜空の下、頭上の白い石に両手をかかげていたあの姿は、ちょうど彼が時の石へと姿を変えようとするところを描いていたのかもしれない。
「ちなみに石に姿を変えたってのはあくまで喩えで、実際のところは、彼は実在しない女の幻覚にとらわれて、最期には白い石――白骨化して天に昇ったんじゃないかといわれてる」
「お話の幻想的な部分が容赦なく消え去ってますね……」
「まあ、現実に照らして考えるとそうなるんだろうね。普通の人間は突然消えたり、石になったりしないから」
そこで言葉を一旦切って、トスイはこちらを見つめる。彼の視線は、短く切り揃えられたアニタの毛先を捉えていた。
「……けど、きっと本当にいたんだろうと俺は思うよ。不思議な力を持った男も、彼が求めた相手も」
トスイがそう言ったと同時、馬車がガタンと音を立てて止まり、御者が目的地に着いたことを知らせるベルを鳴らす。
大きく響くその音に遮られてしまって、結局それ以上トスイの話の続きを聞くことはできなかった。
◇
フリエラに到着後、アニタ達はさっそく店長を訪ねることにした。
確か店は大通り近くだったはずだ。記憶を頼りに通りを歩いて行くと、これでもかと目立つ建物が見えてきた。
朱く塗られた壁と柱に、独特な形をした黒緑の屋根。店前に「美味しい!」と掲げられた大きな看板は、五年経っても健在だった。
「あの店名、いつ見ても気に入らないな」
「分かりやすくていいじゃないですか。トスイさんも見習った方がいいですよ」
いつも何考えてるか分かりづらいですもん、そう忌憚なき意見をアニタが述べれば、トスイは目だけこちらによこした後、「いつもだだ漏れの君と釣り合いがとれてちょうどいいでしょ」と笑った。屁理屈である。
そうして会話もそこそこに、アニタ達は無事に店の前まで到着する。店長のことだから、てっきり店先のイスに腰かけて自分たちを待ってくれているに違いないと予想していたのだが、そこには誰の姿もない。
もともと今日は店を休み(従業員の夫妻が里帰り出産をしているらしい)にするつもりだと手紙で事前に聞いていたので、お客の姿がないのには驚かない。だがそれにしたってやけに静かだ。
「ごめんくださーい! 店長、いらっしゃいますかー!」
アニタは少しの違和感を覚えつつも、扉の叩き金を鳴らしてそう声をかける。
数秒、返事を待つ。……が、何も聞こえない。
念のためもう一度声をかけようとアニタが息を吸ったところで、隣にいたトスイがそれを制した。
「鍵が空いてる」
「え?」
「中に人の気配もするし……ただの留守ってわけじゃないみたいだね」
そう言うやいなや、トスイはアニタを自身の背後に隠し、ノブに手をかけて豪快に扉を開く。
彼の後ろから覗いた店内には――テーブルに山盛りのご馳走と、そのそばで床に倒れる見知った姿があった。
「店長!?」
驚いたアニタが叫ぶと同時、前に居たトスイが倒れ込む店長の元へと素早く近づき、彼の上身を支え起こす。
トスイに続いて駆け寄ったアニタが店長の顔を覗き込めば、力なく閉ざされていた両目がそろそろと開いた。
「店長、一体どうしたんですか!?」
「こ……」
「こ!?」
まさか、誰かに殺されかけ――!?
「こ、腰を、ギックリやってしまったネ……」




