後日談 第二話
朝から一日かけて船は順調に進み、アニタたちが南都の港町に到着したのは夕暮れ時だった。
今日はこのまま船着場近くの宿をとり、明朝フリエラの街へと向かう予定になっている。
王都との往復船が運行し始めたことで街全体の宿の数も増えたのか、前回のように宿にあぶれることも、呼び男の世話になることもなく。
アニタたちは至って普通の、旅行者向けの宿へと泊まることとなった。
「ようこそ、いらっしゃい! 遠いところへよく来たね」
人の良さそうで気さくな宿の主人に出迎えられ、代表としてトスイが受付で料金の説明を受ける。念のためアニタも料金表をちらっと覗き見たが、しっかり適正価格であった。
「それでお客さん、部屋はどうする? 二名一室でいいかい?」
「――いいです!! 二名一室でお願いします!」
宿の主人の問いに、アニタが横から間髪入れずに答える。トスイが「いきなりどうした」と言わんばかりにこちらを見つめていたが、今ここで彼と部屋が分かれてしまっては元も子もないので、ここは一旦、必殺気づかないフリを行使させてもらう。
一方で宿の主人はというと、さっきまで大人しくしていたお客の片割れが突如として威勢の良い返事を繰り出しても一切の動揺をみせない。
流石は接客業というべきか、「じゃあお客さん達は二階の突き当たりの部屋ね!」と普通に部屋の鍵を差し出してくれた。
「一階は食堂になってるから、夕食と朝食はそこでとってね。朝食は七時の鐘が鳴ってからだよ」
他にも、部屋に風呂はないので公衆浴場を使ってほしいこと、裏手に井戸があるので身体を拭く程度の水ならば用意できること等々の細かい説明を受けた後、無事に手続きは完了した。
主人に礼を言って受付を離れ、いよいよアニタ達は二階の部屋へと向かう。
その道すがら、階段を登りながらアニタは必死に周囲を見渡し、非常時の避難経路の把握に努める。
(宿の出入口は、正面と裏口の二つみたい。うーん、階段から部屋まではちょっと距離があるな……。いやでも、前みたいに火の手が階段側から上がる場合もあるか)
あとで部屋から一階の出口まで走って何秒かかるかも測っておこう。そんなことを思いつつ、アニタは先陣きって鍵を使い、いよいよ今夜泊まる部屋へと入った。
ぐるりと見渡した部屋の造りは、至ってシンプルなものだった。部屋はベッドがある一室のみで、ベッドは左右両端の壁に別れる形で二つ置かれている。
隅の方にある籐編みの大きな衝立は、最低限のプライバシースペースを区切るためのものだろう。扉のすぐ脇には小さなテーブル、それから衣装ケースも備え付けてあった。
何より、アニタにとって重要なのは窓である。第二の避難経路だからだ。
部屋奥にある窓へとアニタはずんずん近づいて、ガラス越しに外を覗き込み、ここから地面までの高さを確認した。
(前ほど高くはないけど……。いざ飛び降りるってなったらどうだろう。でも近く木が植えられてるし、何とかいけるのかな)
「――ねぇ、」
「どわあ!!」
着地に失敗して全身バキボキになったりしたらやだな。そんなスプラッタな未来を考えた矢先、背後から急に声をかけられて、アニタは飛び上がって驚く。
勢いよく後ろを振り返れば、トスイがすぐ近くに立ってこちらを見下ろしていた。窓から差す月の光を浴びた、濃紫の瞳がアニタの姿をとらえる。
「さっきから君は一体何をしてるの?」
「えーと、これはその、見慣れぬ外の景色を楽しんでいるといいますか……」
「へぇ? 何か考えがあるみたいだったから此処まで君に従ってきたけど、まだその窓にへばりつく羽虫ごっこ続けるわけ」
「ちょっと! 言い方に悪意が満ち満ちていますよ! 私はただ、もしまた火事が起きた時のために避難経路を確認しておくべきだと思っただけで――!」
「ふぅん。なるほど」
アニタは煽り耐性がなさすぎる自分の性分を恨んだ。いともたやすく彼女から事情を吐かせることに成功したトスイはというと、目を細めて数秒思案した後、静かに口を開く。
「……状況が状況だしね。君が俺のことをすごく心配してくれてるってのは分かってる」
“火事”という言葉ひとつで、おおよそのアニタの思考をトスイは察したらしい。彼の声に、こちらの不安を取り除こうとするような気遣いの色が混じる。
「けど、もう俺はあの時みたいにはならないよ。これまで何度も任務の時に宿もとってるしね。もう大丈夫」
それは、そんなのはアニタだって分かっている。
トスイが騎士になってからのここ五年だけで区切っても、アニタより彼の方がよっぽど宿をとった回数が多いだろう。“もう大丈夫”という彼の言葉に、嘘偽りはない。
だから、アニタはそれを信じて、「そうですよね。私ってば、心配のしすぎですよね」と笑い飛ばせばいい。そうすればすべて丸く収まる。
「……そんなの、信じられません」
それなのに、なぜかアニタの口から出たのは正反対の言葉だった。笑い飛ばすなんて到底できなくて、ただ俯くことしかできない情けなさと悔しさで声が震える。
「普段は大丈夫でも、今回は私が一緒にいます。あの時と状況が近いのは断然今の方で……私が一緒にいるせいで、貴方がまた辛い思いをするかもしれないじゃないですか。そんなの、そんなのは嫌です」
「…………」
「もちろん部屋を分けることも考えました。でも、そうしたらいざって時に貴方を守れないし」
「…………」
「ならせめて、貴方が少しでも安心できるように私がめいっぱい危険に備えておこうって思ったんです。でも、いろいろ意識すればするほど上手くいかなくて、……窓にへばりつく羽虫って言われるし」
「……ふ、」
不意に、頭上から抑えきれず漏れたような声が聞こえる。こんな状況で笑うなんて流石にひどい――そう抗議しようとアニタが顔を上げれば、予想外の光景が目に飛び込んできた。
「っ、いまこっち見ないで」
なぜか、トスイが赤面していた。手と腕で顔を覆って隠そうとしているが、よくよく見れば口元もほのかに緩んでいる。
「……トスイさん、なんでニヤけてるんですか?」
「そんな顔してない」
「いやいま完全にニヤけてたでしょう! なんならめちゃくちゃ照れてたじゃないですか!」
「怒んないで。今それされると余計に刺さるからやめて」
刺さるってなんだ。
トスイの言ってる意味は分からないが、彼が滅多に見れない珍しい表情をしていることだけは分かる。
その衝撃でなんだかアニタは毒気を抜かれてしまって、先ほどまで心を苛んでいた不甲斐なさと自己嫌悪が薄れて、いつもの調子を取り戻しつつあった。
「とにかく、私だって貴方を大事にしたい。――貴方にやられっぱなしだなんてそんなの、悔しいじゃないですか」
そう心のままに吐き出した言葉が、すとんとアニタの中で腑に落ちる。
そうか。自分はずっと、やられっぱなしが悔しかったのか。もやもやと不明瞭だった自身の気持ちが定まって、清々しい気持ちでアニタが微笑めば、ふいに正面から強く身体を引き寄せられる。
「……君ってさァ、愛情表現すらも喧嘩腰なわけ?」
どこか呆れたような、それでいて少し浮ついたような、かすれた声が耳元で聞こえた次の瞬間、がぶりと耳の縁に噛みつかれた。
「!?!? トスイさ……!」
驚いたアニタが思わず身をよじっても、腰に回されたトスイの腕はゆるまない。そのまま耳の外側のカーブに沿うように、甘噛みで二度三度歯を立てられ、最後に到達した耳たぶへ、ちゅ、と可愛らしい音が落とされた後、ようやく男の気配が離れた。
顔を真っ赤に染め、散々翻弄されにされた自身の耳を押さえて呆然とするアニタを、双つの紫色が黙って見下ろす。しばらくアニタのことをじっと観察していたそれは、ふいに弓形に細まって笑みを作った。
「は、いい気味だね。後先考えずに俺に喧嘩を売るから、そんな目に遭う」
嘲る口調で放たれた冷たいその言葉とは対照的に、アニタの身体に回されたままの彼の手はまだ熱く、とびきり優しい。
「……もうあんまり、ひどくしたくなるようなこと言うなよ」
そうして、いたずらに手の中に閉じ込めた蝶をそっと逃がすみたいに、アニタの身体は解放された。




