第九話 鎌と青年
「おい、聞いたか? また俺のお気に入りの店が潰れちまったんだよ」
「またかよ。まぁ、ここ二年ずっとその調子だしな。もうしょうがねぇよ……」
薄暗い路地裏で、泥を落とした作業着を着た中年男二人が、諦め混じりの溜め息をついていた。
「それもこれも、全部あいつらが課してくる重税のせいだ。貴族ってだけで、なんで俺たちとこんなにも生活が違うのかねぇ」
「そのせいで、この街もすっかり変わっちまったよな」
男たちの視線の先にある広場には、かつて美しい紫色の酒を噴き上げ、人々に活気を与えていた芸術的な噴水の姿はなかった。
今ではただの、無機質な石造りの井戸がぽつんと佇んでいるだけだ。
鳥たちが歌うように舞っていた大風車も、次々と壊され、今や残っているのは寂しげに回る二基だけ。
商店街を行き交う人々の表情からは生気が失われ、かつて「世界一の酒の街」と謳われたクロベルの栄華は、見る影もなく衰退していた。
「お、あれは……ヴォルガドさんじゃねぇか?」
一人の男が、広場の端に佇む巨体に気づく。
「誰かを待ってるようだが、あの人とまともに喋る奴なんかいるのかね。王都で問題を起こして、この最果ての街に飛ばされてきたっていう、いわく付きの騎士だろ?」
男たちが物珍しそうに見つめるなか、金髪の元高位騎士——ヴォルガドの視線は、通りを遠くから歩いてくる一人の青年に注がれていた。
青年は、その身体には不釣り合いな、布に包まれた「巨大な何か」を背中に背負っている。
その時だった。
ガタガタと激しい音を立てて、一台の馬車が通りに乱入してきた。
だが、その速度は明らかに異常だった。牽いている馬の口からは泡が吹きこぼれ、完全に興奮状態で暴走している。
御者台に座る男はやつれ果て、虚ろな目で手綱を握ったまま、まともに前を見ていない。
そして、その暴走馬車が猛スピードで突き進む先には——おもちゃを落として立ち尽くす、小さな子供の姿があった。
「おい、あれ、まずくねぇか!?」
「っ、でも、もう間に合わねえぞ!!」
広場の誰もが最悪の結末を予想し、悲鳴を上げようとした、まさにその刹那。
「おい! ヴォルガドさん! あんた騎士だろ、あの馬車を止めてくれ!」
男が叫んだが、大男は一歩も動かなかった。
それどころか、その口元を不敵に吊り上げて笑ってさえいる。
「くそっ、もう……!」
男が目を背けようとした瞬間、世界の時間が一瞬だけ加速したように見えた。
遠くから歩いていたはずの青年が、いつの間にか暴走馬車の真横へと移動していたのだ。
青年は背負っていた布包みを身軽に解くと、中から現れた「漆黒の巨大な鎌」を一切の無駄のない動作で一閃させた。
刃で馬を傷つけるのではない。
鎌の大きく湾曲した峰の部分を、猛スピードで回転する馬車の車輪の車軸へと完璧に引っ掛け、強引にその軌道をねじ曲げたのだ。
凄まじい破壊音と共に、馬車が横転する。
子供のわずか数センチ手前で、暴走する巨体が完全に停止した。
一瞬の静寂の後。
事態を見守っていた街中の住人たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
その瞬間だけは、まるで活気のあったかつてのクロベルが戻ってきたかのような熱気だった。
「おい! そこのヒーローの兄ちゃん! 名前はなんて言うんだ!?」
集まってきた住人の一人が興奮気味に問いかける。
「……いえ。名乗るほどのものではありません」
青年は黒い鎌を器用に回して背中に収めると、困ったように眉を下げた。
「そこを教えろよー!その子の命の恩人だろ!」
周囲の熱気に押し切られ、青年は小さく溜め息をつく。
「……ラザロ、です」
「ラザロか! ありがとな、ラザロ!!」
住人たちが再びその名を叫び、拍手を送る。
「おい。行くぞ、ラザロ」
人混みの外から、ヴォルガドの声が響いた。
「あ! ヴォルガド!」
青年は、大男の方へと軽い足取りで駆けていく。
その背中を見送りながら、最初に路地裏で話していた中年男二人は、顔を見合わせて楽しげに笑い合った。
「おいおい……この街も、まだ捨てたもんじゃないかもしれないな」
「ああ、あんな若い奴が命懸けで人を助けて頑張ってんだ。俺たち大人が腐ってちゃ、申し訳が立たねぇよな」
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(言ってやった…ついに言ってやったぞ……!)
心の中で、俺はガッツポーズを連発していた。
前世でネット小説やアニメを観ていた頃から、人生で一度は実戦で言ってみたかったセリフ、ナンバーワン。
『名乗るほどのものではありません』
今の俺、客観的に見ても絶対にめちゃくちゃ格好よかったはずだ。
間違いない。
「何をさっきから、薄気味悪くニヤニヤしているんだ」
隣を歩くヴォルガドが、怪訝そうな目を向けてくる。
「いや、見ました? 今の俺の鎌捌き。完璧に車軸を捉えてましたよね? 正直、凄すぎませんでした?」
「まあ、馬の勢いを完全に殺しきれていなかった。まだ身体の軸が甘いな」
「相変わらず厳しいなぁ……。まあでも、やっとこの日が来ましたね」
俺たちがこのクロベルの街に辿り着いてから、およそ三年の月日が流れた。
俺は今日、晴れて十五歳になった。
「さて……そろそろ、行くか」
「はい!」
俺の背丈はこの三年間でずいぶんと伸びた。さすがにヴォルガドの巨体を超えることはできなかったが、それでも人並み以上の体にはなったと思う。
そして、一番驚いたのは、自分の「顔」だった。
宿の鏡をまともに見た時、自分の顔が前世のごみみたいな容姿とは比べ物にならないほどの、整った茶髪の美青年に変化していることに気づいて驚愕したのだ。
(神様がくれた、新しい身体と新しい人生……)
だけど、見た目がどれだけ綺麗に変わろうとも、俺はあの地下室の恐怖も、前世で実の母親をあやめてしまったという大罪も、一瞬たりとも忘れたことはない。
この身体は、誰かを守るために鍛え上げたものだ。
雑多な住宅街を抜け、街のさらに外縁へと歩を進めていく。
「よし、見えてきたぞ」
ヴォルガドが足を止めた。
「そこが……騎士団の本部ですか?」
「なわけあるか。本部は中央の王都にある。今から行くのは、俺が配属されている『支部』だ。お前には、まずここで受付をしてもらう」
「なるほど……」
ヴォルガドはこの三年間、頑なに俺を王都へ連れて行こうとしなかった。
それどころか、このクロベルの街から外に出すことすら嫌っていた。
やはり、俺の「魔法拒絶」の体質が、騎士になるまで王都の上層部にバレるのを防ぐためなのだろう。
「ここが、俺たちの拠点だ」
手招きされて視線を向けた先には——俺が想像していたような、清潔で格式高い白亜の建物は存在しなかった。
そこに建っていたのは、ひび割れた石壁にどす黒い苔がびっしりと生えた、お世辞にも立派とは言えない古びた所だった。
傾いたドアの前では、昼間だというのに甲冑を着たままの騎士たちが、だらしなく酒瓶を傾けている。
「……これ、騎士団の拠点っていうより、収容所ですよ」
「当たり前だ」
ヴォルガドは自嘲気味に鼻で笑った。
「ここには、王都のきらびやかな『格差社会』から嫌われ、追い出されたはぐれ者の騎士しかいないんだからな」
そう言ったヴォルガドの横顔に、一瞬だけ、ひどく寂しげな色が浮かんだのが、俺の目に妙に焼き付いた。




