第七話 格差社会
俺たちはひたすら歩き続けていた。
太陽はとうに天高くに昇り、容赦のない日差しが肌をジリジリと焦がす。
だが、それまで足元でざあざあと音を立てていた頼りない草の感触が、ふっと消えた。
代わりに現れたのは、多くの人々に踏み固められ、綺麗に整備された乾いた土の道だ。
「やっと……ついた……」
限界を迎えつつある声を絞り出し、視線を上げる。
そこには、目的地を示す巨大な木製の看板が掲げられていた。
『世界一の酒の街・クロベルへようこそ!!』
その看板の先にある重厚な石造りの門をくぐった瞬間、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、これまでに見たこともないほどの圧倒的な活気に満ちた街並みだった。
「赤葡萄酒三樽だ!運べ運べ!」
「そこの兄ちゃん、飲んでくか!?」
人が、この世界に生きていく人々が、普通に歩き、笑い、生活している。
ただそれだけの光景が、地下室に囚われていた俺にとっては、涙が出るほどに愛おしく、嬉しかった。
通りの奥には巨大な風車がゆっくりと回っており、その周囲を色鮮やかな鳥たちが飛び交っている。
軒を連ねる商店街からは、商人たちの威勢のいい声と、客たちの楽しげな笑い声が絶え間なく交錯していた。
ふと見ると、広場の中央にある美しい噴水から、薄紫色の液体が勢いよく吹き上がっている。
爽やかで、どこか甘い香りが風に乗って鼻をくすぐった。
「……酒?」
思わず呟く。
すると近くの男が笑った。
「おう!クロベル名物、“葡萄酒泉”だ!」
「観光なら飲んどけ!いやまだ子供だからダメだな!」
意味が分からない。
噴水から酒が出ているのか、この街は。
さらに驚いたのは、行き交う人々の姿だ。
すれ違う人々の中には、明らかに人間の枠に収まらない特徴を持つ者たちがいた。
ふさふさとした毛皮に覆われ、尖った耳や立派な尾を持つ、まるで獣が二足歩行をしているかのような姿——。
(……獣族。本当に、この世界には人間以外の種族も生きているんだ!)
頭の中は未知の異世界への興奮で弾け飛びそうだったが、俺の肉体はその熱量についていかなかった。
一歩を踏み出すたびに、鉛のように重い疲労が足首に絡みつく。
「ラザロ、どうした。急に立ち止まるな」
後ろから、ヴォルガドの低く掠れた声が降ってくると同時に、俺の肩に大きな手が置かれた。
「……お前、顔色が最悪だな。完全に限界か」
「当たり、前、じゃないですか……っ! あんな滅茶苦茶な方法で空を飛ばされた後に、休憩もなしにずっと歩かされてたんですよ……!」
あの後、フィオネによって文字通り空中に放り出された俺たちは、ヴォルガドの人間離れした着地によって、数日かかるはずの距離を一瞬で移動することに成功した。
前世の常識では到底考えられない超常現象だ。
「それに……俺たち、焚き火を囲んで休憩している最中だったはずです。なのに、街が近いからって一気に……」
文句を言い続けようとした、その時だった。
急激に視界がぐにゃりと歪み、周囲の喧騒が遠のいていく。
足の感覚が急に薄くなる。
ヴォルガドが何か言っている。
だが、聞き取れない。
なんだか身体が――
重い。
*****
『ほら! 早く起きなさい! 学校に遅れちゃうよ!』
耳元で、懐かしい声が響く。
うるさいなぁ。
いつもいつも、毎朝同じセリフばかり。
無駄に大きくて、お節介な声。
『ほら、早く立ちなさい! ご飯の用意はできてるんだから!』
なんで毎日、そんなに必死に起こそうとするんだよ。
でも、今起きないと後で小言を言われて面倒なことになる。
身体が重い。
……あれ? そもそも、俺、学校なんて行く場所があったっけ……?
ゆっくりと、拒絶するように重い瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた実家の自室ではなく、剥き出しの木目が並ぶ見知らぬ天井だった。
「……懐かしい、夢だったな」
ぼんやりとした頭で呟く。
まだ、引きこもりになる前の、中学の頃の記憶。毎朝、当たり前のように自分を起こしてくれた、あの人の姿。
上体をゆっくりと起こすと、部屋の隅にある椅子に、腕を組んだヴォルガドが静かに腰掛けていた。
「起きたか。まだ成長期の手前である子供の身体には、さすがに過酷すぎたな。配慮が足りなかった、すまない」
ヴォルガドが、珍しくバツが悪そうに小さく会釈をした。
「いや、いいですよ。俺の方こそ、助けてもらった身なのに偉そうなことを言ってすみません」
「ここは、どこですか?」
「街の宿だ。お前が倒れた後、ここまで担いで運んだ」
「……ありがとうございます」
そこで、会話が途切れて静寂が落ちた。
どうにも、俺とヴォルガドの会話は長く続かない。
お互いに、自分の核心にある部分に触れさせないよう、無意識に言葉を選んでいるからだろう。
俺は気まずさを紛らわせるようにベッドから抜け出し、窓辺へと近づいて外を眺めた。
「いらっしゃい! 獲れたての羽付き豚の特売だよ!」
窓の外の商店街は、相変わらず活気に満ち、楽しげな人々で埋め尽くされていた。
羽付き豚。
豚に羽が生えているのだろうか。
本当に、この異世界は俺の知らない未知の驚きであふれている。
俺は、この世界で今度こそ、楽しく生きて——。
「お母さん! あの青いお菓子買ってよ!」
「ダメよ。さっきお昼ご飯を食べたばかりでしょ」
不意に、すぐ下の通りから親子の何気ない会話が聞こえてきた。
小さな男の子が、母親の服の裾を引っぱって駄々をこねているだけの、どこにでもある光景。
「本当にお願い! 一個だけだから!」
「……もう、しょうがないわね。これが最後よ?」
母親が呆れたように笑いながら、子供の頭を優しく撫でる。
男の子は嬉しそうに、その細くて温かそうな母親の手をぎゅっと握り返した。
胸の奥が、鋭い刃物で突かれたように激しく痛んだ。
ただの日常の一コマのはずなのに。
なぜだろう。
視界が急激に滲んで、涙が溢れそうになる。
「……お前がその手であやめたのは、母親か」
背後から、ヴォルガドの低く沈んだ声が室内の空気を凍らせた。
「……はい」
俺は窓の外を向いたまま、消え入りそうな声で応じた。
「僕は、どれだけ取り返しのつかない大罪を犯したのでしょう。これまでずっと、地下室で生き残るために、明日の恐怖から逃れるために、自分のことだけで必死だった。俺は、自分の過去から目を背けて、この新しい世界でただ楽しもうとしていた——」
喉の奥が震える。
「俺は……最低のクズです」
「そうだな。客観的に見れば、お前は紛れもないクズで、救いようのないゴミだ」
間髪を入れない、あまりにも無慈悲で早い肯定だった。
驚いて振り返ると、ヴォルガドはすでに椅子から立ち上がり、そのまま何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
パタン、と静かに閉まった扉を見つめながら、胸が痛みに襲われる。
自分が犯した過ちは、人間として決して許されるものではない。
それは自分が一番よく分かっている。
だけど、いざ他人にここまで冷酷に突き放されると
——都合がいいとは思いながらも、心が張り裂けそうに辛かった。
「……だから、前にも言っただろう」
不意に、再び扉が開いた。
入ってきたヴォルガドの手には、袋に包まれた何かがあった。
彼はそれを無造作に机に置くと、ため息をつきながら再び椅子に深く腰掛けた。
「大切なのは、今のその罪に対して、どう向き合うかだと」
「そう言われても……俺はどうやって償えばいいんですか。あそこで数千回死んだからって、それで何かが許されるわけじゃない」
「そんなものは償いでも何でもない。ただの理不尽な拷問だ」
ヴォルガドの顔つきが、いつになく真剣なものへと変わる。
「ラザロ。なぜ俺が、お前をここまで連れてきて、こうして手を貸すか分かるか?」
「……分かりません」
「お前に、こんなところで無価値に死んでもらっては困るからだ」
彼の暗い目の奥に、確かな熱量が灯る。
「お前のその『魔法を拒絶する身体』は、はっきり言って世界の理を覆すほどの異常だ。もしその事実が王都の上層部に知られれば、子供だろうが何だろうが、実験材料として一生を暗闇で終えることになる」
ヴォルガドは窓の外の街並みへ視線を向けた。
「お前は、この世界の貴族たちがどうやってその絶対的な地位を維持しているか知っているか?」
「……魔法、ですか?」
「そうだ。生まれ持った血筋と魔力の量、それだけで人間の価値がすべて決まる。魔法が使えない、あるいは微弱な者は、どれだけ努力しようと最下層の奴隷として生涯を虐げられる。……かつてのお前のようにな」
言われた瞬間、地下室で手錠を嵌められ、理不尽に暴力を振るわれていた日々が脳裏をよぎる。身体が恐怖で微かに震えた。
「……何が、言いたいんですか」
「血筋というただ一つの傲慢だけで全てが支配される世界など、反吐が出るほどにつまらないゴミだと思わないか?」
ヴォルガドが立ち上がり、俺の目の前に歩み寄る。彼の大きな影が俺を包み込んだ。
「もし、何の血筋も持たない、力もない最底辺のガキが、その『魔法拒絶』の力だけで世界の頂点まで上り詰めたらどうなる?」
彼は、数々の激戦を物語る無数の傷が刻まれた、分厚い手のひらを俺の前に差し出した。
「上のゴミどもは、自分たちの絶対的な基盤を失い、文字通りただのゴミに成り下がる。……俺の力はそこまで届かなかった。だが、お前なら、あるいは」
力強い視線が、まっすぐに俺の目を射抜く。
「これは俺の身勝手な野望だ。お前の罪の意識を利用していると言われても否定はしない。だが、ラザロ。お前がその罪を背負って生き抜くと決めたのなら——」
差し出された手のひらが、微かに震えていた。
「この手を握り、俺と共に騎士を目指せ。俺の果たせなかった夢を、お前のその身体で証明してくれ」




