表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/115

名前のない喫茶店

 駅から歩いて十五分、商店街を抜けた先に、その店はある。

 看板はなく、外観も特別ではない。

 木のドアと、少し曇ったガラス窓。

 古びた郵便受けには何も入っておらず、隅の鉢植えだけが妙に元気だった。


 僕がその店の存在に気づいたのは、会社を一週間休んだあとのことだった。

 理由は体調不良、と届けたが、正確には“心のぐあい”だった。

 眠れない夜が続いて、朝になると身体が重く、上司や同僚の言葉がノイズのように頭をかすめた。

 そんなある日、気がつけば足がこの路地に向いていた。

 ドアを開けると、小さなベルが鳴った。

 中は静かで、落ち着いた照明がほの暗く揺れていた。

 席は十もなく、すべて木製。

 壁には古い時計と、季節感のない絵画がかかっていた。

 カウンターの奥から、小柄な女性が「いらっしゃいませ」と言った。

「……あの、ここは何の店ですか?」

「喫茶店です。よろしければ、どうぞ」

メニューはなかった。カウンターに座ると、彼女は問いかけた。

「今日は、どんな気分ですか?」

「え?」

「すっきりしたい気分、何かを忘れたい気分、逆に思い出したい気分……何でも大丈夫です。それに合う飲み物をお出しします」

 僕は戸惑いながらも、「……何も考えたくない」と答えた。


 数分後、運ばれてきたのは淡い琥珀色のハーブティーだった。

 一口飲むと、思考が遠のくような感覚に包まれた。

 心の奥でざわついていたものが、すっと静かになる。

 香りが脳に直接届いて、夢の中に落ちる寸前のような感覚になった。


 そのまま三十分ほど、ただ座っていた。

 会話はなく、音楽もない。

 ただ、静けさと、薄い光と、あたたかな空気。

「お代は?」

と聞くと、女性は首を横に振った。

「ここでは、お代は記憶です」

「記憶……ですか?」

「なにか、小さくてもいいので、いらなくなった思い出を置いていってください。代わりに、お持ち帰りいただくのは静けさです」

 不思議なことを言う、と思ったが、なぜか納得してしまった。

 僕はひとつ、小学生のときの失敗談を思い出し、それを頭の中でそっと箱に入れるようにして「ここに置いていきます」とつぶやいた。

 女性はうなずき、カウンターの奥へその“見えない何か”を運んでいった。


 それ以来、僕は時折その店を訪れるようになった。

 誰にも話していない記憶を、ひとつずつそっと手放していった。

 失恋のこと、後悔している言葉、言えなかったありがとう。

 どれもすべて、ここに来るたび、少しずつ軽くなっていった。


 ふと、気づいたことがある。

 この店、なぜかずっと前から「知っていた」ような気がする。

 初めて来た日でさえ、どこか懐かしく感じた。

 まるで、ずっと前にも来たことがあるような、あるいは、来たかったけど来られなかったような、そんな記憶。


 ある日、仕事帰りに店を訪ねた。

 が、そこにはもう店はなかった。


 建物はあったが、ドアもガラス窓も、郵便受けも、どこか違う。

 まるで初めから存在しなかったかのように、そこにはただ古びた空き家があるだけだった。

 あの喫茶店は、どこへ行ってしまったのか。


 それ以来、いくら探しても見つからない。

 地図にも載っていないし、人に聞いても「そんな店は知らない」と言われる。


 だけど、ときどき夢の中で、ベルの音が聞こえる。

 そして、誰かの声がする。

「今日は、どんな気分ですか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ