きっと言えない言葉
チャイムが鳴り終わると同時に、教室の空気が少しだけほどけた。
椅子を引く音。
鞄のファスナーを閉める音。
窓の外では、グラウンドから部活の掛け声がかすかに聞こえてくる。
私はノートを閉じながら、そっと顔を上げた。
斜め前の席。
渡辺正樹が立ち上がるところだった。
窓から差し込む夕方の光が、彼の肩に薄く落ちている。
友達に何か言われたのか、渡辺くんは少しだけ笑った。
その横顔を見て、胸の奥が小さく揺れる。
好きだと気づいたのは、いつだったんだろう。
思い返しても、はっきりした瞬間はない。
ただ、気がついたら私は渡辺くんを目で追っていた。
体育の授業で走っている姿。
昼休みに友達と笑っている声。
廊下を歩く背中。
どれも特別なことじゃないのに、私にとっては特別だった。
「いそっち、部室寄る?」
後ろの席の友達が声をかけてくる。
「うん、ちょっとだけ寄る」
そう答えながら教科書を鞄にしまう。
でも、立ち上がる前にもう一度だけ前を見る。
渡辺くんは友達と話しながら、もう教室を出ていくところだった。
笑い声が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
私は小さく息を吐いた。
好きな人がいる毎日は、少し忙しい。
目が合っただけで心臓が跳ねるし、近くを通っただけで胸がざわつく。
それなのに。
私と渡辺くんは、ほとんど話したことがない。
同じクラスになってもうすぐ一年なのに、会話はほんの数回だ。
プリントを渡したとき。
グループワークで同じ班になったとき。
それくらい。
部室から廊下に出ると、夕方の光が長く伸びていた。
窓の外の空は、ゆっくりオレンジ色に染まり始めている。
階段を降りて、昇降口へ向かう。
下駄箱の前で、私は足を止めた。
渡辺くんがいた。
友達と話しながら靴を履き替えている。
夕日の光が、ガラス越しに床へ流れていた。
その光の中で、渡辺くんがまた笑う。
その笑顔を見るだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
私は少し離れた場所で靴を履き替える。
できるだけ自然に。
見ていないふりをしながら。
それでも、どうしても視線がそちらへ向いてしまう。
「じゃあまた明日」
渡辺くんが友達に手を振る。
その声を聞いた瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
もし。
ほんの少しだけ思う。
もし私が、あの会話の中に入れたら。
もし「また明日」って言い合える距離だったら。
そんなことを考えてしまう。
渡辺くんは昇降口を出ていった。
私は少し遅れて外へ出る。
校庭には夕方の光が広がっていた。
グラウンドの砂が、夕日に照らされて淡く光っている。遠くでサッカーボールを蹴る音が響いた。
渡辺くんは校門の方へ歩いていた。
その背中が、少しずつ遠くなる。
私はその背中を、ただ見ている。
声をかける勇気はない。
きっと、これからも。
それでも、この時間が嫌いじゃなかった。
遠くから見ているだけでも、少しだけ幸せだった。
風が吹く。
校庭の端の木が、さわりと揺れた。
そのとき。
「磯村」
突然、名前を呼ばれた。
私は思わず顔を上げた。
渡辺くんが、少し離れたところで立ち止まっている。
驚いて胸が跳ねた。
「……はい」
自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
渡辺くんは少しだけ困ったように笑う。
「これ、落ちて飛んだ」
そう言って差し出されたのは、私のノートだった。
いつの間にか鞄から落ちていたらしい。
「あ……ありがとうございます」
ノートを受け取ると、指先が少し触れた。
その一瞬だけで、心臓がうるさくなる。
「気をつけろよ」
渡辺くんは軽く言って、また歩き出した。
それだけ。
それだけの会話。
でも胸の奥が、じんわり熱くなる。
私はその背中を見ていた。
好きだな、と思う。
やっぱり、好きだ。
でも、この気持ちはきっと言えない。
言わなくてもいい気がする。
今日、名前を呼ばれたこと。
少しだけ話せたこと。
それだけで、もう十分だった。
渡辺くんの背中が校門の向こうへ消えていく。
空はもう、すっかり夕焼けだった。
校舎の窓がオレンジ色に光っている。
私はノートを胸に抱えた。
胸の奥で、小さな光が灯っているみたいだった。
好きだという気持ちは、不思議だ。
叶うかどうかなんてわからないのに、それでも心の中で静かに大きくなっていく。
私はゆっくり歩き出す。
夕焼けの光の中を。
渡辺くんが歩いていった道を、少しだけ遅れてたどるように。
空には、薄い雲が流れていた。
その下で、放課後の光だけが静かに残っていた。
きっとこの恋は、まだ始まっていない。
それでも。
今日のことは、きっとずっと忘れない。




