ガラス越しの春
朝の光が、オフィスの大きな窓から斜めに差し込んでいた。
白いブラインドの隙間から落ちる光が、机の上に細い影をいくつもつくっている。キーボードを打つ手を止めて、栗原佑香はふと顔を上げた。
窓の向こうには、まだ少し冷たい三月の空。
ビルの谷間を抜ける風に、街路樹の枝が揺れている。
もうすぐ、桜が咲く。
「栗原さん、この資料お願いしてもいい?」
声がして振り向くと、書類が差し出されていた。
土屋斗真だった。
「はい、大丈夫です」
佑香は書類を受け取る。
その瞬間、指先がほんの少し触れた。
ほんの一瞬。
それだけのことなのに、胸の奥に小さな波紋が広がる。
佑香はすぐに視線を落とした。
こんなことで動揺するなんて、自分でも可笑しいと思う。
斗真とは、同じ部署になって三年になる。
仕事が早く、穏やかで、誰に対しても同じ距離で接する人だった。
怒るところを見たことがない。
誰かの失敗を責めるところも見たことがない。
気がつくと、部署の誰もが彼に仕事を頼っていた。
佑香も、その一人だった。
ただ、その優しさに、それ以上の感情を抱いてしまった。
午後のオフィスには、コピー機の低い音とキーボードの音が静かに重なっている。
その中で、ふと聞こえた。
「土屋くん、式いつだっけ?」
誰かの声。
佑香の手が止まる。
「四月です」
斗真の声は、いつも通り落ち着いていた。
「もうすぐじゃん。準備大変でしょ」
「まあ、ぼちぼちですね」
周囲から軽い笑いが起きる。
佑香は書類を見つめたままページをめくった。
文字が並んでいる。
読めているはずなのに、意味が頭に入ってこない。
四月。
その言葉だけが、胸の奥に沈んでいく。
斗真には、婚約者がいる。
それを知ったのは、去年の冬だった。
部署の飲み会の帰り道。
駅まで続く夜道を並んで歩きながら、何気ない会話の中で聞いた話だった。
「学生の頃から付き合ってるんです」
そう言って、斗真は少し照れたように笑った。
街灯の光が、その横顔を柔らかく照らしていた。
そのとき、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
けれど同時に、妙に納得もしてしまった。
ああ、やっぱり。
そう思った。
斗真の周りには、いつも穏やかな空気がある。
誰かが隣にいることが、自然な人だった。
だから。
これは最初から、叶わない恋だったのだ。
それでも感情は、消えてくれない。
コピー機の前で並んだとき。
会議のあと、同じエレベーターに乗ったとき。
コーヒーを入れながら、他愛ない会話をしたとき。
そんな小さな時間が、少しずつ胸に残っていく。
夕方、オフィスの窓がオレンジ色に染まった。
ガラスに映る街の光が、ゆっくり夜へ変わっていく。
斗真が席を立った。
「ちょっとコンビニ行ってきます。誰か何かいります?」
周囲からいくつか声が上がる。
メモを取りながら、斗真はふと佑香を見た。
「栗原さんは?」
突然視線を向けられて、少し驚く。
「……じゃあ、カフェラテお願いします」
「了解です」
軽く手を上げて、斗真はオフィスを出ていった。
ドアが閉まる。
それだけで、部屋の空気が少し静かになった気がした。
佑香は椅子に座ったまま、窓の外を見た。
もし。
ほんの一瞬、思う。
もし出会う順番が違ったら。
もし彼に婚約者がいなかったら。
そんなことを考えても、何も変わらない。
それでも、想像してしまう。
やがて斗真が戻ってきて、コンビニの袋を机に置いた。
「栗原さんはカフェラテでしたよね」
「ありがとうございます」
カップを受け取ると、手のひらに温かさが広がった。
「もうすぐ忙しくなりそうですね」
斗真が言った。
「四月、新しい案件入るらしいです」
「そうなんですね」
「また頼りにしてます」
さらりとした言葉。
特別な意味はない。
それでも胸の奥が、少しだけ温かくなる。
夜、仕事を終えてビルの外へ出ると、風が少しだけ柔らかくなっていた。
春が近い。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
部署のグループチャットだった。
『土屋くんの結婚式の招待状届いた?』
その文字を見て、佑香は少しだけ目を閉じた。
現実は、もうすぐそこまで来ている。
次の日の朝。
佑香のデスクの上に、白い封筒が置かれていた。
「栗原さん」
声がする。
顔を上げると、斗真が立っていた。
「それ、よかったら」
封筒を指差す。
「結婚式の招待状です」
佑香はそれを見つめた。
白い封筒。
少し厚みのある紙。
それをそっと手に取る。
「……ありがとうございます」
思ったより、声は落ち着いていた。
「無理にとは言いませんけど」
斗真が言う。
「来てくれたら嬉しいです」
佑香は小さくうなずいた。
封筒を引き出しにしまう。
胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、その痛みはどこか静かだった。
夕方。
佑香が帰ろうと席を立つと、偶然エレベーターで斗真と一緒になった。
二人きりだった。
エレベーターの中は静かで、機械音だけが小さく響いている。
「最近、暖かくなりましたね」
斗真が言う。
「そうですね」
「もうすぐ桜ですね」
佑香はうなずいた。
少し沈黙が続く。
エレベーターが一階に着く。
扉が開く。
二人でビルの外へ出る。
夕方の風が、少しだけ春の匂いを運んでいた。
そのとき、斗真がふと立ち止まった。
「栗原さん」
「はい?」
振り返る。
斗真は少しだけ困ったように笑った。
「もし……」
言葉を探すように、少し間があく。
「もし、出会う順番が違ったら」
佑香の心臓が、小さく跳ねた。
斗真は空を見上げながら続けた。
「栗原さんのこと、好きになってたと思います」
一瞬、時間が止まった気がした。
夕方の光が、ビルのガラスに反射している。
佑香は何も言えなかった。
斗真は小さく笑った。
「変なこと言いましたね」
それだけ言って、軽く手を上げる。
「お疲れさまでした」
そう言って、駅の方へ歩いていく。
佑香はその背中を見ていた。
胸の奥が、静かに震えている。
叶わない恋だった。
それは、きっと変わらない。
それでも。
たった今の言葉が、胸の奥で小さく光っていた。
空を見上げる。
薄い雲の向こうに、淡い月が浮かんでいる。
風が少しだけ暖かい。
どこかで、きっともうすぐ桜が咲く。
佑香はゆっくり歩き出した。
ガラス張りのビルが夕焼けを映している。
その向こうに、春が静かに近づいていた。




