表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
95/116

ガラス越しの春

 朝の光が、オフィスの大きな窓から斜めに差し込んでいた。

 白いブラインドの隙間から落ちる光が、机の上に細い影をいくつもつくっている。キーボードを打つ手を止めて、栗原佑香はふと顔を上げた。

 窓の向こうには、まだ少し冷たい三月の空。

 ビルの谷間を抜ける風に、街路樹の枝が揺れている。

 もうすぐ、桜が咲く。

「栗原さん、この資料お願いしてもいい?」

 声がして振り向くと、書類が差し出されていた。

 土屋斗真だった。

「はい、大丈夫です」

 佑香は書類を受け取る。

 その瞬間、指先がほんの少し触れた。

 ほんの一瞬。

 それだけのことなのに、胸の奥に小さな波紋が広がる。

 佑香はすぐに視線を落とした。

 こんなことで動揺するなんて、自分でも可笑しいと思う。

 斗真とは、同じ部署になって三年になる。

 仕事が早く、穏やかで、誰に対しても同じ距離で接する人だった。

 怒るところを見たことがない。

 誰かの失敗を責めるところも見たことがない。

 気がつくと、部署の誰もが彼に仕事を頼っていた。

 佑香も、その一人だった。

 ただ、その優しさに、それ以上の感情を抱いてしまった。


 午後のオフィスには、コピー機の低い音とキーボードの音が静かに重なっている。

 その中で、ふと聞こえた。

「土屋くん、式いつだっけ?」

 誰かの声。

 佑香の手が止まる。

「四月です」

 斗真の声は、いつも通り落ち着いていた。

「もうすぐじゃん。準備大変でしょ」

「まあ、ぼちぼちですね」

 周囲から軽い笑いが起きる。

 佑香は書類を見つめたままページをめくった。

 文字が並んでいる。

 読めているはずなのに、意味が頭に入ってこない。


 四月。

 その言葉だけが、胸の奥に沈んでいく。

 斗真には、婚約者がいる。

 それを知ったのは、去年の冬だった。

 部署の飲み会の帰り道。

 駅まで続く夜道を並んで歩きながら、何気ない会話の中で聞いた話だった。

「学生の頃から付き合ってるんです」

 そう言って、斗真は少し照れたように笑った。

 街灯の光が、その横顔を柔らかく照らしていた。

 そのとき、胸の奥で何かが静かに沈んだ。

 けれど同時に、妙に納得もしてしまった。

 ああ、やっぱり。

 そう思った。

 斗真の周りには、いつも穏やかな空気がある。

 誰かが隣にいることが、自然な人だった。

 だから。

 これは最初から、叶わない恋だったのだ。

 それでも感情は、消えてくれない。

 コピー機の前で並んだとき。

 会議のあと、同じエレベーターに乗ったとき。

 コーヒーを入れながら、他愛ない会話をしたとき。

 そんな小さな時間が、少しずつ胸に残っていく。


 夕方、オフィスの窓がオレンジ色に染まった。

 ガラスに映る街の光が、ゆっくり夜へ変わっていく。

 斗真が席を立った。

「ちょっとコンビニ行ってきます。誰か何かいります?」

 周囲からいくつか声が上がる。

 メモを取りながら、斗真はふと佑香を見た。

「栗原さんは?」

 突然視線を向けられて、少し驚く。

「……じゃあ、カフェラテお願いします」

「了解です」

 軽く手を上げて、斗真はオフィスを出ていった。

 ドアが閉まる。

 それだけで、部屋の空気が少し静かになった気がした。

 佑香は椅子に座ったまま、窓の外を見た。

 もし。

 ほんの一瞬、思う。

 もし出会う順番が違ったら。

 もし彼に婚約者がいなかったら。

 そんなことを考えても、何も変わらない。

 それでも、想像してしまう。


 やがて斗真が戻ってきて、コンビニの袋を机に置いた。

「栗原さんはカフェラテでしたよね」

「ありがとうございます」

 カップを受け取ると、手のひらに温かさが広がった。

「もうすぐ忙しくなりそうですね」

 斗真が言った。

「四月、新しい案件入るらしいです」

「そうなんですね」

「また頼りにしてます」

 さらりとした言葉。

 特別な意味はない。

 それでも胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 夜、仕事を終えてビルの外へ出ると、風が少しだけ柔らかくなっていた。

 春が近い。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 画面を見る。

 部署のグループチャットだった。

『土屋くんの結婚式の招待状届いた?』

 その文字を見て、佑香は少しだけ目を閉じた。

 現実は、もうすぐそこまで来ている。


 次の日の朝。

 佑香のデスクの上に、白い封筒が置かれていた。

「栗原さん」

 声がする。

 顔を上げると、斗真が立っていた。

「それ、よかったら」

 封筒を指差す。

「結婚式の招待状です」

 佑香はそれを見つめた。

 白い封筒。

 少し厚みのある紙。

 それをそっと手に取る。

「……ありがとうございます」

 思ったより、声は落ち着いていた。

「無理にとは言いませんけど」

 斗真が言う。

「来てくれたら嬉しいです」

 佑香は小さくうなずいた。

 封筒を引き出しにしまう。

 胸の奥が少しだけ痛む。

 けれど、その痛みはどこか静かだった。


 夕方。

 佑香が帰ろうと席を立つと、偶然エレベーターで斗真と一緒になった。

 二人きりだった。

 エレベーターの中は静かで、機械音だけが小さく響いている。

「最近、暖かくなりましたね」

 斗真が言う。

「そうですね」

「もうすぐ桜ですね」

 佑香はうなずいた。

 少し沈黙が続く。

 エレベーターが一階に着く。

 扉が開く。

 二人でビルの外へ出る。

 夕方の風が、少しだけ春の匂いを運んでいた。


 そのとき、斗真がふと立ち止まった。

「栗原さん」

「はい?」

 振り返る。

 斗真は少しだけ困ったように笑った。

「もし……」

 言葉を探すように、少し間があく。

「もし、出会う順番が違ったら」

 佑香の心臓が、小さく跳ねた。

 斗真は空を見上げながら続けた。

「栗原さんのこと、好きになってたと思います」

 一瞬、時間が止まった気がした。

 夕方の光が、ビルのガラスに反射している。

 佑香は何も言えなかった。

 斗真は小さく笑った。

「変なこと言いましたね」

 それだけ言って、軽く手を上げる。

「お疲れさまでした」

 そう言って、駅の方へ歩いていく。

 佑香はその背中を見ていた。

 胸の奥が、静かに震えている。


 叶わない恋だった。

 それは、きっと変わらない。

 それでも。

 たった今の言葉が、胸の奥で小さく光っていた。

 空を見上げる。

 薄い雲の向こうに、淡い月が浮かんでいる。

 風が少しだけ暖かい。

 どこかで、きっともうすぐ桜が咲く。

 佑香はゆっくり歩き出した。

 ガラス張りのビルが夕焼けを映している。


 その向こうに、春が静かに近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ