水曜日のベンチ
公園の桜は、まだ咲ききっていなかった。
薄い蕾が枝先に並び、ところどころだけ淡い色をにじませている。風が吹くたびに枝が小さく揺れ、午後の光が葉のない梢を透かしていた。
私はベンチに腰掛け、紙袋の口を開いた。
中にはコンビニのパンが二つ入っている。
袋から一つ取り出し、ちぎる。
白い欠片を足元に落とすと、遠くにいた鳩が二、三羽、こちらを見た。
少し間を置いてから、歩いてくる。
鳩は警戒深い。
だが、慣れてしまえば案外単純だ。
パンの欠片をもう一つ落とす。
灰色の羽が近づき、ついばむ。
その様子を見ながら、私は腕時計を見た。
午後三時を少し回ったところだった。
今日も、まだ来ていない。
ベンチの背にもたれ、空を見上げる。
雲は薄く、春の空にしては少し白すぎる。
私はこの公園に、毎週水曜日の午後三時に来る。
もう一年以上続いている習慣だった。
最初に彼女を見たのも、水曜日だった。
そのとき私は仕事を辞めたばかりで、昼間の時間を持て余していた。
営業職だったが、十七年勤めた会社を退職した。
理由は、まあ、よくある話だ。
人間関係と、疲れと、ほんの少しの諦め。
とにかく、私は突然、暇になった。
昼間の街は、思っていたより静かだった。
働いている人間は、平日の午後に街を歩くことがない。
だから私は、あてもなく歩き、偶然この公園に入った。
彼女はそのとき、噴水の近くのベンチに座っていた。
白いブラウスに、紺のスカート。
肩までの髪が風で揺れていた。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
落ち着いた雰囲気の人だった。
彼女は膝の上に紙袋を置き、パンを小さくちぎっていた。
そして、足元に落とす。
鳩が集まる。
ただ、それだけだった。
それなのに、私はなぜか立ち止まっていた。
その光景が、妙に静かで、穏やかだったからだ。
彼女は私に気づいていなかった。
私は少し離れたベンチに座り、なんとなく鳩を見ていた。
それが最初だった。
次の水曜日。
私はまた公園に来ていた。
理由は特にない。
ただ、あの静かな午後をもう一度見たかっただけだ。
そして三時になると、彼女は本当に現れた。
同じベンチ。
同じ紙袋。
同じようにパンをちぎる。
鳩が集まる。
それを見て、私は少しだけ安心した。
不思議なことに、その日から水曜日が気になり始めた。
三度目の水曜日、私は思い切って声をかけた。
「鳩、今日は多いですね」
彼女は少し驚いた顔をした。
だが、すぐに視線を足元に戻した。
「そうですね」
声は柔らかかった。
それだけの会話だった。
だが、その日から、私たちはときどき言葉を交わすようになった。
「今日は風が強いですね」
「ええ」
「鳩、太ってますね」
「冬だからでしょうか」
そんな程度の話だった。
名前も聞かなかった。
彼女も聞かなかった。
それでも、毎週水曜日、三時になると、同じベンチの近くに座る。
鳩が集まり、パンが減っていく。
時間が静かに過ぎる。
私はその時間が、少し好きになっていた。
夏の終わり頃、彼女が言った。
「あなた、仕事は?」
私は苦笑した。
「今はしてません」
「そうなんですか」
「辞めました」
彼女は驚かなかった。
「いいと思います」
「いいんですかね」
「ええ」
彼女は鳩を見ながら言った。
「人って、ずっと同じことを続けると、壊れますから」
私は少し黙った。
「経験者ですか」
「いいえ」
彼女は小さく笑った。
「見てきただけです」
秋が来て、落ち葉が増えた。
公園の空気は、少し透明になった。
ある日、私は聞いた。
「どうして鳩にパンを?」
彼女は少し考えた。
「約束なんです」
「約束?」
「ええ」
パンをちぎりながら言う。
「昔、ここで、誰かとよく座ってたんです」
鳩が一羽、彼女の足元に近づく。
「その人が、よく鳩にパンをあげてた」
「なるほど」
「だから」
彼女は少し空を見上げた。
「私も続けてるだけ」
私はそれ以上聞かなかった。
冬の午後。
風が冷たい日だった。
鳩は少なく、公園は静かだった。
彼女はいつものようにベンチに座り、パンをちぎっていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「はい」
「もし」
少し間を置く。
「私が来なくなったら」
私は彼女を見た。
「どうします?」
私は少し考えた。
そして答えた。
「鳩にパンをあげます」
彼女は驚いた顔をした。
「どうして」
「寂しい人がいるから」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「優しいですね」
「そんなことないです」
「優しいですよ」
風が吹き、落ち葉がベンチの下を転がった。
そして春が来た。
桜が咲き始めた水曜日。
彼女は来なかった。
次の水曜日も。
その次も。
私はベンチに座り、パンをちぎった。
鳩が集まる。
時間が過ぎる。
それだけだった。
それから一年。
私は今も水曜日にこの公園へ来る。
午後三時。
同じベンチ。
同じ紙袋。
鳩が足元に集まる。
桜は今年も咲き始めていた。
私はパンをちぎり、地面に落とす。
そのときだった。
「すみません」
声がした。
振り向くと、小さな男の子が立っていた。
五歳くらいだろうか。
「それ」
男の子は鳩を指さした。
「ママがやってたやつだ」
私は一瞬、言葉を失った。
「ママ?」
男の子は頷いた。
「ここで」
「……そうなんだ」
「うん」
男の子の後ろで、若い女性が頭を下げた。
「すみません、その子……」
「いえ」
私は首を振った。
「お母さん、よく来てたんですか」
女性は少し迷い、それから言った。
「ええ」
「この公園」
「好きだったみたいで」
男の子が鳩を見て笑った。
「ママ、鳩好きだった」
私は静かに頷いた。
胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく。
「そうか」
私はパンをもう一つちぎった。
そして男の子に差し出した。
「やってみる?」
男の子は嬉しそうに頷いた。
小さな手からパンが落ちる。
鳩が集まる。
春の風が吹き、桜の花びらが一枚、ゆっくり舞い落ちた。
私はその光景を見ながら、ふと思った。
もしかすると。
彼女が続けていた約束は、ここで終わったわけではない。
形を変えて、まだ続いているのかもしれない。
鳩が羽を鳴らして飛び立つ。
桜の花びらが空に舞う。
水曜日の午後三時。
ベンチの上には、静かな春の光が落ちていた。




