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水底に立つ傘

 雨の日にだけ、あの踏切は一分ほど長く閉じる。

 そんな噂を最初に聞いたのは、駅前の喫茶店でアルバイトを始めた春だった。

 昼下がり、客の切れ間にマスターがぽつりとこぼしたのだ。

「急行が通らない時間でもな、雨が強い日はやけに待たされる」

 笑い話のつもりらしかったが、その目はどこか本気だった。

 私は曖昧に笑い返しながら、窓の外の灰色を眺めた。

 線路は川沿いを走り、古い踏切は住宅地と商店街を結ぶ細い道に横たわっている。

 梅雨入り前の湿った空気が、街の輪郭を少しだけ溶かしていた。


 私がこの町に戻ってきたのは、三年ぶりだった。

 大学進学を機に出たが、父が倒れ、家業の手伝いをするため帰郷した。

 父は小さな印刷所を営んでいる。

 雨の日は湿気で紙が波打つから嫌いだと、よく愚痴をこぼす。

 私は父の代わりに配達へ出ることが増えた。

 あの踏切を渡るたび、錆びた警報機の赤い目が、じっとこちらを見ている気がした。


 六月のある夕方、配達の帰りに急な雨に降られた。

 折り畳み傘は鞄の底にあるはずだったが、どうやら家に置いてきたらしい。

 私は軒下を渡り歩きながら踏切へ向かった。

 遮断機が下りる音がして、足止めを食う。

 周囲に人影はない。

 雨脚は次第に強まり、アスファルトを叩く粒が跳ね返る。

 やがて警報音が止まり、遮断機が上がった。

 だが列車は通らなかった。

 私は首を傾げながら線路を渡りかけ、そのとき足元に何かが触れた。


 黒い傘だった。

 骨の一本が折れ、布地は水を含んで重い。

 誰かが落としていったのだろう。

 拾い上げると、柄の部分に小さな白いテープが巻かれている。

 そこに細い字で名前が書かれていた。「水野」。

 かすれたインクが滲み、最後の一画が消えかけている。

 私はしばらく迷ったが、雨に打たれるよりましだと、傘を差した。


 不思議なことに、その傘の下だけ雨音が遠い。

 周囲では激しく降っているのに、布を打つ音は柔らかく、どこか水底で聞くように鈍い。

 踏切を渡りきると、背後で再び警報機が鳴った。

 振り返ると、今度は確かに列車が通過する。

 車窓の中、ひとつの窓だけが暗く、そこに人影が立っている気がした。

 私と同じ高さで、こちらを見ている。

 だが次の瞬間、雨に滲んで何も見えなくなった。


 家に戻り、傘を玄関に立てかける。

 父は奥で機械の点検をしていた。

「濡れたか」

 と聞くので、

「少し」

 と答える。

 夕食のあと、私は妙に早く眠くなった。

 雨音が屋根を打ち、規則的なリズムを刻む。

 目を閉じると、踏切の警報音が混じった。

 かんかん、という金属の響きが、雨と重なって遠ざかる。


 夢を見た。

 雨の中、踏切の向こうに立つ少女。

 制服姿で、黒い傘を差している。

 顔ははっきりしないが、口元だけが鮮明で、何かを言っている。「待って」と聞こえた気がした。

 私は線路を渡ろうとするが、足が重く、遮断機が何度も下りる。

 少女の足元には水が溜まり、やがてそれは小さな川になって、彼女の靴を飲み込んだ。


 翌朝、目が覚めると枕元が湿っていた。

 雨漏りではない。

 窓は閉まっている。

 頬に触れると、冷たい水が付く。

 私はぞくりとした。

 玄関の傘は、昨夜よりもずっと濡れている。

 滴がぽたりと落ち、床に小さな水たまりを作っていた。


 喫茶店でその話をすると、マスターは顔をしかめた。

「水野、か……」

 と低く呟く。

 十年前、この町で高校生の少女が踏切事故に遭ったという。

 雨の日だった。

 遮断機をくぐったわけでも、無理な横断をしたわけでもない。

 警報が鳴らず、列車も徐行していたのに、彼女だけが線路上に取り残されたように動けなくなった。

 名前は、水野葵。

 私は喉が乾くのを覚えた。


 その日の帰り、私はあえて踏切へ向かった。

 空はどんよりと重く、今にも降り出しそうだ。

 黒い傘を持っている自分が、少し滑稽に思える。

 遮断機は上がっている。

 私は線路の手前で立ち止まり、柄のテープを指でなぞった。

 インクがにじみ、指先に薄く黒が移る。


 ぽつり、と一滴が落ちた。

 続けて、雨が降り出す。

 途端に警報機が鳴り、遮断機が下りる。

 だが遠くを見ても列車の影はない。

 私は胸の奥がざわめくのを感じながら、傘を差した。

 音が遠のく。

 水底の静寂。

 線路の向こう側に、あの少女が立っていた。

 今度ははっきりと見える。

 制服の襟、濡れた前髪、握りしめた手。

「ねえ」

 と彼女は言った。

「まだ、渡れてないの」


 私は気づいた。

 彼女は事故の瞬間から、時間を渡れずにいるのだ。

 警報が鳴るたび、雨が降るたび、あの一分間に閉じ込められている。

 踏切が雨の日に長く閉じるという噂は、彼女のための余白だったのかもしれない。


 私は遮断機をくぐろうとした。

 だが足がすくむ。

 列車の気配が、どこからともなく近づく。

「傘、返して」

 彼女が言う。

「それがないと、わたし、ここから出られない」


 私はためらった。

 傘を手放せば、激しい雨に打たれるだろう。

 だがこの傘は、彼女の時間そのものだ。

 柄を握る手に力を込め、私は一歩踏み出した。

 遮断機の下をくぐり、線路の上に立つ。

 少女は目を見開いた。


 その瞬間、強烈な風が吹いた。

 遠くから列車のライトが迫る。

 私は傘を彼女に差し出す。

 彼女の指が触れた途端、布地がひらりと翻り、雨音が戻った。

 水底の静寂が破れ、現実の轟音が押し寄せる。

 少女の姿が薄れていく。

「ありがとう」

 と、確かに聞こえた。


 気づくと、私は踏切の手前に立っていた。

 遮断機は上がり、雨は小降りになっている。

 列車が通った形跡もない。

 手の中の傘は消えていた。

 代わりに、足元の水たまりに白いテープが浮かんでいる。

 そこには何も書かれていなかった。


 家に戻ると、父が言った。

「さっきニュースでな、あの踏切の警報機が新しくなるらしい。長年の不具合が直るってさ」

 私は黙って頷いた。

 胸の奥にあった重みが、少しだけ軽い。


 それからというもの、雨の日に踏切が長く閉じることはなくなった。

 噂も、やがて消えた。

 私は配達の帰りに、ときどき線路の向こうを振り返る。

 灰色の空、濡れた枕木、赤く点滅する灯り。

 そこにはもう、立ち尽くす影はない。


 ただ、強い雨が降る夜、耳を澄ますと、遠くで柔らかな雨音がする。

 傘の内側で聞く、水底のような静けさ。

 あの一分間の余白が、確かに存在した証のように。

 私は足を止めずに歩く。

 雨はやがて止み、町は何事もなかったかのように朝を迎える。

 それでも、踏切を渡るたび、私は小さく息を吸う。

 あの日、差し出した傘の重みを、忘れないために。

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