表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/116

火の番

 山の夜は、思ったよりも早くやってくる。

 昼のあいだはあれほど騒がしかった蝉の声も、夕暮れとともに遠のき、かわりにひやりとした空気が谷あいを満たす。

 風の匂いは乾いていて、木々の葉や苔の香りが混ざる。

 わたしは、その冷えを待っていた。


 リュックを下ろし、平らな場所を選ぶ。

 周囲に燃え移るものがないことを確かめ、落ち葉を払い、小石をどける。

 そして、細い枝を組む。

 乾いた小枝は、折ると軽い音を立てる。

 ぱきり。

 その音が好きだ。

 ひとつひとつが、夜の静けさを切り裂く合図のようで、少し心が落ち着く。


 小さな薪を井桁に重ね、中央に火口を忍ばせる。

 マッチを擦ると、硫黄の匂いが立つ。

 小さな炎が生まれる。

 それを、そっと差し入れる。


 最初は頼りない。

 だが、やがて枝の先が赤くなり、じわりと火が広がる。

 ぱちり、と爆ぜる。

 焚き火が、生まれた。


「よろしくな」

 わたしは、火に向かってつぶやく。

 返事はない。

 だが、炎がひときわ高く揺れた。


 山に来るのは、久しぶりだった。

 仕事に追われ、街の喧騒に埋もれ、気づけば何年も火を囲んでいない。

 昔はよく、父と来た。

 父は無口な人だったが、焚き火の前ではよく話した。


「火はな、見てると飽きないだろう」

 そう言って、じっと炎を見つめていた。

 その横顔を、わたしは覚えている。

 目の奥に温かさが宿り、沈黙の中にも言葉が流れていた。


 今はもう、父はいない。

 だから一人で来た。

 焚き火は、ぱちぱちと音を立てる。

 夜が深まり、星が増える。

 炎は橙色に揺れ、薪をかじるように燃やしていく。

 わたしは折りたたみ椅子に腰かけ、マグカップを手に取る。

 湯気が立つ。

 火の前では、時間がゆっくりになる。

 時計を見なくなる。

 炎は形を変え続ける。

 尖り、丸まり、崩れ、また立ち上がる。

 見ていると、不思議と胸の奥がほどけていく。


 そのとき、背後で小さな音がした。

 がさり。

 振り向く。

 闇のなかに、ふたつの光。

 目だ。

 鹿か、狐か。

 しばらくこちらを見つめ、やがてゆっくりと姿を現す。

 若い鹿だった。

 細い足で、慎重に近づく。

 火を怖がるかと思ったが、一定の距離を保ち、座り込んだ。


「寒いのか」

 鹿は答えない。

 だが、炎を見つめている。

 わたしは薪を一本くべる。

 火が大きくなる。

 鹿の瞳に、炎が映る。

 まるで、目の奥に小さな焚き火があるようだ。


「火はな、あったかいぞ」

 自分でも可笑しくなる。

 鹿に話しかけるとは。

 だが、不思議と違和感はない。

 焚き火の前では、言葉は重要ではなくなる。

 ただ、同じ火を囲んでいる、それだけでいい。


 しばらくすると、反対側の闇から、また音がした。

 今度は、ゆっくりとした足取り。

 現れたのは、老人だった。

 白い髭をたくわえ、杖をついている。

 こんな山奥に。

 わたしは立ち上がる。


「こんばんは」

「ああ、火を分けてもらっていいかね」

 老人は穏やかに言う。

「どうぞ」

 老人は焚き火の向こうに腰を下ろす。

 鹿は逃げない。

 ただ、三者で火を囲む形になる。


「いい火だ」

 老人はうなずく。

「そうですか」

「火はな、人を映す」

「映す?」

「焦っていれば、荒れる。穏やかなら、静かに燃える」


 わたしは炎を見る。

 確かに、今夜の火は穏やかだ。


「あなたは、何を燃やしている」

 老人が言う。

 薪のことではないと、わかった。

 わたしはしばらく考える。

「昔のこと、ですかね」

「ほう」

「父と来たことを思い出していました」

 老人は小さく笑う。

「ならば、それはよく燃える」

 ぱちり、と薪が爆ぜる。

「思い出は、乾いているからな」


 鹿が、鼻を鳴らす。

 炎が揺れる。

「火はな、燃やすだけではない」

 老人は続ける。

「形を変える」

「形を?」

「木は灰になり、灰は土に戻る。思い出も同じだ」

 わたしは黙る。

「抱えていれば、重い。燃やせば、あたたかい」

 炎が、ふわりと高くなる。

 父の横顔が、揺らぐ。

 あの日の山の匂い。

 煙の向こうの空。

 それらが、胸の奥でじわりと広がる。

 悲しみは、少しだけ形を変える。


「あなたは、誰ですか」

 思わず尋ねる。

 老人は、炎を見つめたまま答えない。

 やがて、立ち上がる。

「火の番を忘れるな」

 それだけ言い、闇へ溶ける。

 鹿も、いつのまにかいない。


 残ったのは、焚き火と、わたし。

 夢だったのかもしれない。

 だが、炎は変わらず燃えている。

 薪は少なくなり、赤い炭が顔を出す。

 わたしは、最後の一本をくべる。


「火の番、か」

 つぶやく。

 火を絶やさぬこと。

 それは、ただ暖をとるためではない。

 自分の内にある何かを、見失わないため。


 炎が静かに落ち着く。

 夜は深い。

 だが、怖くはない。

 焚き火がある。

 ぱちり、と小さな音。

 それは、まるで返事のようだった。


 やがて薪は尽き、炎は低くなる。

 赤い炭が、ほのかに光る。

 わたしは水をかけ、完全に火を消す。

 白い煙が立ち上る。

 あたたかさが、ゆっくりと消えていく。

 だが、胸の奥には、まだ火が残っている。

 それは目に見えない。

 だが確かにある。

 リュックを背負い、山道を下る。


 東の空が、わずかに白む。

 夜明けが近い。

 振り返ると、焚き火の跡が、黒い円となっている。

 灰は、いずれ土に混じるだろう。

 わたしの思い出も、形を変え、どこかへ還る。

 それでいい。

 また火を起こせばいい。

 火の番は、続く。


 胸の奥の、小さな焚き火を抱きながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ