火の番
山の夜は、思ったよりも早くやってくる。
昼のあいだはあれほど騒がしかった蝉の声も、夕暮れとともに遠のき、かわりにひやりとした空気が谷あいを満たす。
風の匂いは乾いていて、木々の葉や苔の香りが混ざる。
わたしは、その冷えを待っていた。
リュックを下ろし、平らな場所を選ぶ。
周囲に燃え移るものがないことを確かめ、落ち葉を払い、小石をどける。
そして、細い枝を組む。
乾いた小枝は、折ると軽い音を立てる。
ぱきり。
その音が好きだ。
ひとつひとつが、夜の静けさを切り裂く合図のようで、少し心が落ち着く。
小さな薪を井桁に重ね、中央に火口を忍ばせる。
マッチを擦ると、硫黄の匂いが立つ。
小さな炎が生まれる。
それを、そっと差し入れる。
最初は頼りない。
だが、やがて枝の先が赤くなり、じわりと火が広がる。
ぱちり、と爆ぜる。
焚き火が、生まれた。
「よろしくな」
わたしは、火に向かってつぶやく。
返事はない。
だが、炎がひときわ高く揺れた。
山に来るのは、久しぶりだった。
仕事に追われ、街の喧騒に埋もれ、気づけば何年も火を囲んでいない。
昔はよく、父と来た。
父は無口な人だったが、焚き火の前ではよく話した。
「火はな、見てると飽きないだろう」
そう言って、じっと炎を見つめていた。
その横顔を、わたしは覚えている。
目の奥に温かさが宿り、沈黙の中にも言葉が流れていた。
今はもう、父はいない。
だから一人で来た。
焚き火は、ぱちぱちと音を立てる。
夜が深まり、星が増える。
炎は橙色に揺れ、薪をかじるように燃やしていく。
わたしは折りたたみ椅子に腰かけ、マグカップを手に取る。
湯気が立つ。
火の前では、時間がゆっくりになる。
時計を見なくなる。
炎は形を変え続ける。
尖り、丸まり、崩れ、また立ち上がる。
見ていると、不思議と胸の奥がほどけていく。
そのとき、背後で小さな音がした。
がさり。
振り向く。
闇のなかに、ふたつの光。
目だ。
鹿か、狐か。
しばらくこちらを見つめ、やがてゆっくりと姿を現す。
若い鹿だった。
細い足で、慎重に近づく。
火を怖がるかと思ったが、一定の距離を保ち、座り込んだ。
「寒いのか」
鹿は答えない。
だが、炎を見つめている。
わたしは薪を一本くべる。
火が大きくなる。
鹿の瞳に、炎が映る。
まるで、目の奥に小さな焚き火があるようだ。
「火はな、あったかいぞ」
自分でも可笑しくなる。
鹿に話しかけるとは。
だが、不思議と違和感はない。
焚き火の前では、言葉は重要ではなくなる。
ただ、同じ火を囲んでいる、それだけでいい。
しばらくすると、反対側の闇から、また音がした。
今度は、ゆっくりとした足取り。
現れたのは、老人だった。
白い髭をたくわえ、杖をついている。
こんな山奥に。
わたしは立ち上がる。
「こんばんは」
「ああ、火を分けてもらっていいかね」
老人は穏やかに言う。
「どうぞ」
老人は焚き火の向こうに腰を下ろす。
鹿は逃げない。
ただ、三者で火を囲む形になる。
「いい火だ」
老人はうなずく。
「そうですか」
「火はな、人を映す」
「映す?」
「焦っていれば、荒れる。穏やかなら、静かに燃える」
わたしは炎を見る。
確かに、今夜の火は穏やかだ。
「あなたは、何を燃やしている」
老人が言う。
薪のことではないと、わかった。
わたしはしばらく考える。
「昔のこと、ですかね」
「ほう」
「父と来たことを思い出していました」
老人は小さく笑う。
「ならば、それはよく燃える」
ぱちり、と薪が爆ぜる。
「思い出は、乾いているからな」
鹿が、鼻を鳴らす。
炎が揺れる。
「火はな、燃やすだけではない」
老人は続ける。
「形を変える」
「形を?」
「木は灰になり、灰は土に戻る。思い出も同じだ」
わたしは黙る。
「抱えていれば、重い。燃やせば、あたたかい」
炎が、ふわりと高くなる。
父の横顔が、揺らぐ。
あの日の山の匂い。
煙の向こうの空。
それらが、胸の奥でじわりと広がる。
悲しみは、少しだけ形を変える。
「あなたは、誰ですか」
思わず尋ねる。
老人は、炎を見つめたまま答えない。
やがて、立ち上がる。
「火の番を忘れるな」
それだけ言い、闇へ溶ける。
鹿も、いつのまにかいない。
残ったのは、焚き火と、わたし。
夢だったのかもしれない。
だが、炎は変わらず燃えている。
薪は少なくなり、赤い炭が顔を出す。
わたしは、最後の一本をくべる。
「火の番、か」
つぶやく。
火を絶やさぬこと。
それは、ただ暖をとるためではない。
自分の内にある何かを、見失わないため。
炎が静かに落ち着く。
夜は深い。
だが、怖くはない。
焚き火がある。
ぱちり、と小さな音。
それは、まるで返事のようだった。
やがて薪は尽き、炎は低くなる。
赤い炭が、ほのかに光る。
わたしは水をかけ、完全に火を消す。
白い煙が立ち上る。
あたたかさが、ゆっくりと消えていく。
だが、胸の奥には、まだ火が残っている。
それは目に見えない。
だが確かにある。
リュックを背負い、山道を下る。
東の空が、わずかに白む。
夜明けが近い。
振り返ると、焚き火の跡が、黒い円となっている。
灰は、いずれ土に混じるだろう。
わたしの思い出も、形を変え、どこかへ還る。
それでいい。
また火を起こせばいい。
火の番は、続く。
胸の奥の、小さな焚き火を抱きながら。




