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眠らない雪の町

 その町では、雪が降ると人が眠らなくなった。

 眠れるのだが、目を閉じても夜を越えた感覚は訪れない。

 朝になっても、まぶたの裏に昨日が貼りついたままで、夢も休息も、きれいに通り過ぎていかない。

 身体は横たわり、呼吸も穏やかだ。それなのに時間だけが止まっているように感じる。

 終わったはずの夜が、剥がれずに残るのだ。


 医者は自律神経の乱れだと言い、学者は光環境が寒冷地特有だからだと説明した。

 占い師だけが、はっきりとこう言った。

「雪が、夜を抱え込んでいる」

 町の人々は笑った。

 そんな話で眠れるなら苦労はしない、と。

 けれど、冬が深まるにつれて、誰もが気づき始めた。

 雪が積もるほど、夜は短くなるどころか、朝が来ても心だけが昨日のままだと。

 夜は来る。暗くなる。星も出る。時計もきちんと進む。

 それなのに、心の奥は昨日を抜け出せない。

 涙を流した悲しみは乾かず、怒りは冷めず、後悔は夜を越えない。

 眠りは浅く、夢は途中で凍りつく。

 町のあちこちで、同じ言葉が囁かれる。「昨日が終わらない」と。


 眠らない町で、一人だけ、よく眠る少女がいた。

 名を、エマという。

 エマは夜になると必ず深く眠った。

 夢も見るし、朝には昨日をきちんと過去として置いてこれる。

 なぜなのか、本人にも分からない。ただ、雪が降る夜ほど眠りは深く、安心に沈んでいくのだった。

 吹雪の晩など、まるで誰かに抱きしめられているような感覚に包まれ、身体も心も温かさの底へ落ちていく。

 外の世界のざわめきは遠くに消え、雪の静寂と夜の柔らかさだけが残る。


 ある晩、エマは夢の中で、誰かに呼ばれた。

 声は低く、遠く、雪を踏む音に似ている。

「夜を、返してくれ」

 目を覚ますと、窓の外は雪だった。

 真夜中なのに町は静かで、息をひそめているようだ。

 積雪のせいだけではない。耳鳴りのような無音が、町全体を覆っていた。

 エマは外套を羽織り、家を出た。

 足跡はすぐに雪に埋もれ、振り返っても来た道は消えている。

 通りには誰もいない。家々の窓は暗く、眠っている気配もない。

 まるで目を閉じたまま立ち尽くしているかのように、町全体が昨日を抱え込んでいる。


 町はずれの古い広場に、ひとりの男が立っていた。

 雪の色と見分けがつかないほど白い外套を着ている。

 年齢は分からない。若くも老いても見える。

 顔立ちは整っているのに、どこか輪郭が曖昧で、視線を合わせようとすると焦点がずれる。

「君だけが、眠れる」

 男はエマを見るなり言った。

「それは、君が夜を持っているからだ」

「夜を……持っている?」

 男は足元の雪をすくい上げた。

「この町の雪は、夜を吸う。眠れなかった夜、忘れられなかった夜、終わらなかった夜を」

 雪はきらきらしていない。鈍く、重たい白だ。

 掌の上で、かすかに脈打っているようにも見える。

「雪は、それを抱え込みすぎた。だから、誰にも夜を返さない。朝が来ても、夜が剥がれない」

「じゃあ……私は?」

「君は、夜を手放さなかった」

 男はエマの胸元を指さした。

「夢を見るたび、夜を流した。怖れも後悔も、夢のかたちで溶かした。だから、眠れる」

 エマは胸に手を当てた。

 そこに、何かがある気はしなかった。ただ、確かに夢の記憶がある。

 泣いて、追いかけられて、抱きしめられて、そして終わる夢。

 目覚めれば、物語は閉じている。

「……返すって、どうやって」

 男は、広場の中央にある凍りついた噴水を見た。

「夜を、溶かす」

 エマは噴水の縁に立ち、目を閉じた。

 昨夜の夢を思い出す。怖かった夢。懐かしい夢。終わりを迎えた夢。

 胸の奥に沈んでいた温度を、ゆっくりと外へ流すように息を吐く。

 その瞬間、足元の雪がきし、と鳴った。

 噴水の氷に、細い亀裂が走る。

 閉じ込められていたものが、ようやく動き出す音。

 雪が少しずつ溶け始める。溶けた水は黒ずんでいる。

 そこに映るのは空ではなく、町の人々のまぶたの裏だ。

 泣き損ねた涙、言えなかった言葉、終われなかった一日。

 男は満足そうにうなずいた。

「夜は、誰かが手放さないと、次に行けない」

「全部、溶かせるの?」

「全部は無理だ。だから少しずつだ。誰かが眠るたびに、少しずつ」

 その言葉を最後に、男の姿は雪の中に消えた。

 足跡も残らない。ただ、噴水の水だけがかすかに揺れている。


 翌朝、町の人々は久しぶりに「眠った」と感じた。

 夢を見た者も、見なかった者もいた。

 けれど、全員が昨日を昨日として起き上がれた。

 食卓で交わす言葉が、わずかに軽く、空気がほんの少し柔らかい。

 雪は、相変わらず降っている。ただ、それはもう、夜を奪わない。


 だが、エマは知っている。

 雪は今も静かに吸い込んでいる。

 人が手放しきれなかった夜を、少しずつ、確実に。


 だからエマは今日も眠る。

 深く、確かに、夢を見る。

 泣く夢も怒る夢も愛する夢も、きちんと終わらせる。


 誰かの夜を、溶かすために。


 そしてもし、雪の降る町で、どうしても昨日が終わらない夜を過ごすことがあったなら、静かに目を閉じてほしい。

 遠くで、水の音がするだろう。

 凍った噴水の奥で、ひびが入る音がするだろう。

 それは誰かがちゃんと眠った証だ。

 あなたの夜もまた、次の朝へ向かうために、白い底で溶かされているのだから。

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