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月夜の駅で待つ

 その駅は、昼よりも夜のほうが広く見える。

 線路は二本しかなく、無人駅と呼ぶにはためらいのあるほど小さい。

 だが月が昇ると、ホームは銀色に塗り替えられ、どこまでも続いているかのような錯覚を与える。

 最終列車が去ったあとの駅には、風と虫の声だけが残る。

 そして、ときどき人が現れる。


 その夜も、月は大きかった。

 雲ひとつない空に、丸い光が浮かんでいる。

 ベンチに座っていたのは、ひとりの青年だった。

 名を、遼という。

 彼は腕時計を見て、ため息をついた。

「……来ないよな」

 だれに言うでもなく、つぶやく。

 駅舎の古びた柱に、手書きの張り紙がある。

『月夜の晩、ここで待て』

 差出人の名前はない。

 遼はその紙を、三日前に自宅のポストで見つけた。

 いたずらだと思った。

 けれど、筆跡に見覚えがあった。

 十年前にいなくなった、兄の字に似ていた。

 風が吹き、線路の上を白い光が流れる。

「ばかばかしい」

 帰ろうと立ち上がりかけたとき、足音がした。

 コツ、コツ、と規則正しい音。

 振り向くと、年配の女性がホームに立っていた。

 着物姿で、白髪をきちんと結っている。

「ここは、月がよく見えるでしょう」

 女性は穏やかに言った。

「……そうですね」

 遼は警戒しながら答える。

「あなたも、待っているの?」

「え?」

「月夜に、ここで待てと言われた人は、たいていそう」

 遼は目を見開いた。

「あなたも、張り紙を?」

「いいえ」

 女性は首を振る。

「わたしは、毎月来るの」

「毎月?」

「ええ。月が満ちるたびに」

 女性はベンチの端に腰かけた。

「あなたは、だれを待っているの?」

 遼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「兄です」

「生きているの?」

「わかりません」

 十年前、兄は突然姿を消した。

 理由も告げず、何も残さず。

 家族は捜したが、手がかりはなかった。

「最後に、けんかをしたんです」

 遼は月を見上げる。

「つまらないことで。謝ろうと思ったときには、もういなかった」

 女性は静かに聞いている。

「それで、月夜に呼ばれたと」

「……そうかもしれません」

 そのとき、遠くで汽笛のような音がした。

 遼は顔を上げる。

「最終は、もう終わったはず」

 線路の向こうから、ゆっくりと光が近づいてくる。

 だが時刻表にはない。

 ヘッドライトはなく、車体は淡く透けている。

 月明かりでできた列車のようだった。

「来たわね」

 女性が立ち上がる。

「な、なんですか、あれ」

「月夜列車」

 列車は音もなくホームに滑り込んだ。

 扉がひとりでに開く。

 中は白く、座席もつり革も影のように揺れている。

「乗るの?」

 女性が問う。

「兄が、いるんですか」

「さあ」

 女性は微笑む。

「でも、待っているだけでは、会えないこともある」

 遼は迷った。

 夢かもしれない。

 だが、ここまで来て帰るのも、なにかを裏切るような気がした。

「……乗ります」


 列車に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が包む。

 女性も続いた。

 扉が閉まり、列車はゆっくりと動き出す。

 窓の外に、町が流れる。

 だがそれは、今の町ではない。

 幼いころの景色だ。

 公園のブランコ。

 夕暮れの駄菓子屋。

 川原で石を投げた日。

「これは……」

「あなたの月夜」

 女性が言う。

「人は、月を見るたびに、少しずつ過去を落とすの」

「落とす?」

「置いてくる、と言ってもいいわね」

 列車は次の駅に止まった。

 看板には、名前がない。

 ホームに立っていたのは、少年だった。

 見覚えのある顔。

 幼いころの自分。

 その隣に、兄がいる。

 若く、笑っている。

「兄さん」

 遼は立ち上がる。

 だが足が動かない。

「降りられないの?」

「ここは、もう過ぎた駅だから」

 女性の声はやさしい。

「会いたいなら、言葉を残すの」

「言葉?」

「伝えなかったこと」

 列車が動き出す。

 遼は窓に手をついた。

「ごめん」

 声が震える。

「兄さん、ごめん」

 少年と兄が、こちらを見る。

 やがて、兄が小さくうなずいた。

 景色が白く溶ける。


 列車は再び無人駅に戻ってきた。

 扉が開く。

 遼はふらつきながら降りた。

 女性も続く。

「終わり?」

「ええ」

「兄は……」

「あなたの中にいるわ」

 女性は月を見上げる。

「月夜は、会えない人に会うためのものじゃない」

「じゃあ、何のために」

「言えなかった言葉を、空に返すため」

 月が、すこし雲に隠れる。

 女性の姿が淡くなる。

「あなたは、もう大丈夫」

「あなたは、だれなんですか」

 遼が問う。

 女性は笑った。

「待っている人よ」

 そう言って、彼女は月明かりに溶けた。

 ホームには、遼ひとりが残る。

 列車の気配もない。

 ただ、虫の声と、遠くの犬の鳴き声。

 遼は深く息を吸う。

 胸の奥に、重石のようにあったものが、少し軽くなっている。

「兄さん」

 空に向かってつぶやく。

「元気でな」


 月は、ただ静かに光っている。

 それは冷たい光ではなく、どこかやわらかい。

 遼は駅をあとにする。

 振り返ると、ホームはいつもどおりの小ささに戻っていた。

 だが、もう広く見えない。

 自分の足で歩く道が、はっきりしているからだ。


 月夜は、なにかを連れてくる。

 そして、なにかを持ち去る。

 言えなかった言葉。

 抱えたままの後悔。

 それらを、白い光の中でほどいていく。


 駅は、今夜も静かだ。

 次の月夜に、まただれかが訪れるだろう。

 待っている人と、待たれている人。


 そのあいだに、やわらかな光を落としながら。

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