葉の記憶
庭の隅に、大きな木が立っている。
祖父が若いころに植えたという楓の木だ。
私はその木の下に座るのが好きだった。
春にはやわらかい緑の葉が生まれ、夏には濃い影を落とす。
秋には炎のように赤くなり、冬には枝だけが空を掴む。
季節が移ろうたびに、木は違う顔を見せる。
子どものころ、祖父はよく言った。
「葉っぱはな、覚えてるんだ」
「何を?」
「いろんなことを」
私は笑っていた。
葉っぱが覚えるなんて、そんな話を本気で信じていなかったからだ。
祖父は庭仕事が好きだった。
朝になると必ず外に出て、木を見上げていた。
私は縁側からそれを眺めていた。
「葉っぱは耳なんだ」
「耳?」
「風を聞く」
祖父は枝を指さした。
「雨も聞く」
葉の間を風が通り、さらさらと音がした。
「それで覚えるんだ」
「何を?」
「ここで起きたこと」
私は肩をすくめた。
「そんなわけない」
祖父は怒らなかった。
ただ、笑った。
笑いじわが増えた顔で、庭の土を見つめながら、何かを思い出しているようだった。
祖父が亡くなったのは、私が高校を出た年だった。
それから私は町を出て、都会で働いた。
仕事は忙しく、帰省することも少なくなった。
家は母が守っていた。
楓の木もそのままだと聞いていた。
十年ぶりに帰ったのは、母が入院したときだった。
実家は静かだった。
人の気配がなくなると、家は急に古くなる。
畳の匂い。
廊下のきしみ。
そして庭。
楓の木は、まだ立っていた。
以前より少し大きくなっている気がした。
私は縁側に座った。
風が吹く。
葉が鳴る。
さらさら。
さらさら。
祖父の言葉を思い出した。
葉っぱは覚えてる。
「まさか」
私は苦笑した。
そのとき、葉が一枚落ちた。
まだ緑の葉だった。
足元に落ちる。
私は拾い上げた。
手のひらに乗せる。
普通の葉っぱだ。
でも、なぜか捨てられなかった。
私はその葉を部屋に持ち帰り、本の間に挟んだ。
翌朝。
目が覚めると、奇妙なことに気づいた。
机の上に、葉が置いてある。
昨日、本に挟んだはずだ。
私は本を開いた。
中には何もない。
「……?」
葉を手に取る。
その瞬間、音が聞こえた。
さらさら。
風の音。
いや。
声みたいだった。
遠い声。
庭の匂い。
土の湿った匂い。
祖父の背中。
鍬を持っている。
「ほら」
祖父が言う。
「いい風だ」
私ははっとして顔を上げた。
部屋に誰もいない。
手の中に葉がある。
鼓動が早くなる。
もう一度、葉を見た。
そのとき、また音がした。
さらさら。
今度は違う景色だった。
雨の日。
私は小学生だ。
庭に出て、泥だらけになっている。
母が怒っている。
「風邪ひくでしょ!」
祖父が笑っている。
「子どもは泥が似合う」
私はその場に立っていた。
まるで、本当にそこにいるみたいに。
雨が落ちるたびに、地面の匂いが立ち上る。
土の中からは微かな湿り気と、草の香りが混ざって漂う。
祖父の手元には小さな苗木があり、雨のしずくが葉を揺らしている。
私はその一瞬に息を飲んだ。
次の瞬間、音が止んだ。
私は部屋に戻っていた。
葉が手のひらにある。
息が荒い。
「……覚えてる」
祖父の言葉が頭に浮かんだ。
葉っぱは覚えている。
庭で起きたことを。
その日、私は庭に出た。
楓の木を見上げる。
無数の葉が揺れている。
もし、全部が覚えているなら、どれだけの記憶があるのだろう。
私は一枚の葉を取った。
触れる。
音がする。
さらさら。
今度は、祖父が若い。
まだ父が子どもだ。
祖父が苗木を植えている。
「大きくなれよ」
土をかぶせる。
その横で、祖母が笑っている。
私は息を呑んだ。
この木の記憶だ。
私は次々と葉を触った。
ある葉は夏祭りを覚えていた。
花火の匂い、浴衣の袖がすれ合う感触。
ある葉は喧嘩を覚えていた。
泣きながら玄関を飛び出した日。
ある葉は祖父が一人で庭に座っている夜を覚えていた。
月明かりの下、祖父が静かに呟いている。
「もうすぐ終わりだな」
誰に言ったのか分からない。
でも声は穏やかだった。
私は手を離した。
胸が重い。
木を見上げる。
葉がざわめく。
まるで話したがっているみたいだった。
そのとき、風が強く吹いた。
葉が一斉に揺れる。
さらさら。
さらさら。
音が重なる。
無数の記憶が押し寄せる。
笑い声。
泣き声。
雨。
夏。
冬。
祖父の声。
母の声。
私の声。
この庭の時間が、全部そこにあった。
過去の匂い、音、感触が同時に押し寄せる。
私は膝をついた。
涙が出た。
なぜだか分からない。
ただ、懐かしかった。
しばらくして、風が止んだ。
葉の音も静かになる。
私はゆっくり立ち上がった。
楓の木は、ただそこに立っている。
普通の木だ。
でも、もう違って見えた。
家の中に戻る。
机の上に、さっきの葉を置いた。
それは静かに横たわっている。
もう声は聞こえない。
でも私は知っている。
この葉は覚えている。
ここで生きた人のことを。
窓の外で風が吹いた。
庭の楓が揺れる。
さらさら。
その音は、どこか遠くの会話の続きを聞かせてくれているようだった。
木が、葉が、見守った日々の記憶が、今もここにあることを私は感じた。




