夢売りの終点
人は一晩に三つの夢を見るという。
覚えているかどうかは別として、浅い眠りの底で、必ず何かを見ている。
私はその「何か」を扱う仕事をしている。
もっとも、公的な肩書きは睡眠外来の臨床心理士だ。
だが裏の顔は、夢を買い取り、加工し、別の誰かに渡す――いわば夢売りである。
夢は個人の脳内で完結するものだと信じられている。
けれど実際には、強い感情を帯びた夢は外に漏れ出す。
涙や寝汗のように、目に見えない粒子となって漂い、似た波長の他人に付着する。
私はその現象に気づいた数少ない人間のひとりだ。
大学院時代、被験者の夢日記を分析しているうち、同じ夜に無関係の患者が酷似した夢を見ていることを発見した。
偶然では説明できない一致。
そこから、私の研究と商売は始まった。
診察室の奥には、小さな冷蔵庫がある。
中にはガラス瓶が並び、淡く発光する液体が揺れている。
それぞれに日付と簡単な感情のラベルが貼られている。「喪失」「高揚」「後悔」「赦し」。
夢は採取後すぐに冷却しなければ揮発する。
私は患者の語りを聞き、特定の手順でその夢を瓶に移す。
もちろん表向きはカウンセリングだ。
だが本当は、彼らの見た断片をすくい取り、濾過し、再利用可能な形に整えている。
需要はある。
悪夢に苛まれる者は、穏やかな夢を欲しがる。
何も見られない者は、色鮮やかな物語を求める。
私は適切な瓶を選び、睡眠導入剤に一滴混ぜる。
すると患者は、他人の夢を見る。
多くはそれで救われる。
借り物の幸福でも、眠れない夜を越える助けになるからだ。
だが例外もある。
ある日、診察室にひとりの青年が現れた。
名を名乗らず、ただ「夢を買いたい」と言った。
痩せた指で机を叩き、視線は落ち着かない。
「どんな夢を?」
「終わりのある夢を」
奇妙な注文だった。
「僕は、毎晩同じ夢を見る。終わらない。必ず途中で目が覚める」
彼は語った。
薄暗い駅のホームに立ち、最終列車を待っている。
アナウンスは流れるが、列車は来ない。
時計は動かない。
周囲には誰もいない。
やがて遠くに灯りが見えるが、近づく直前で目が覚める。
十年以上続いているという。
私は棚から「帰還」とラベルの貼られた瓶を取り出した。
戦地から生還した患者が見た、家族の待つ食卓の夢だ。
温かな湯気と笑い声に満ちている。
「これを試してみましょう」
青年は無言で頷いた。
翌週、彼は再び現れた。
顔色はさらに悪い。
「駄目だった。駅のホームに、食卓が置かれただけだ」
私は息を呑む。
他人の夢が、彼の終わらない夢に飲み込まれている。
それから私は、さまざまな夢を試した。
「初恋」「成功」「静寂」。
だが結果は同じだった。
駅のホームは変わらない。
彼の夢は強固で、外部の挿入を拒絶している。
「あなた自身の夢を見せてください」
私は提案した。
通常、夢売りは自分の夢を扱わない。
混入すれば境界が曖昧になるからだ。
だが彼の症例は異質だった。
その夜、私は久しぶりに採取器を自分に装着した。
眠りに落ちると、幼いころの風景が広がる。
海辺の町。
灯台。
父の背中。
私はその夢を瓶に封じ、青年に渡した。
数日後、彼は震える声で言った。
「灯台の先に、駅があった」
夢が接続し始めている。
私は確信した。
彼の終わらない夢は、誰かの未完の物語と結びついている。
「その駅に、誰かいましたか」
「……少女がひとり」
胸がざわめいた。
灯台の夢には、いつも少女がいる。
幼い私の隣で、無言で海を見つめていた影。
顔は思い出せない。
その夜、私は再び眠った。
夢の中で灯台へ向かう。
少女が立っている。
「あなたは誰?」
問いかけると、少女は首を振る。
「あなたが忘れた人」
波が高くなり、足元をさらう。
遠くで列車の汽笛が鳴る。
目覚めた私は、ある記憶を思い出した。
幼少期、私は妹を亡くしている。
溺死だった。
家族はその話題を避け、私もやがて記憶を封じた。
灯台の夢に現れる少女は、妹だったのだ。
青年の終わらない駅の夢。
列車を待つ場所。
未完の到着。
私は理解する。
彼は、私の漏れ出した夢を拾ってしまったのだ。
強い後悔と喪失が、彼の中で増幅し、終わらないホームを作った。
私は決断した。
夢売りとしてではなく、一人の姉として。
青年に最後の瓶を渡す。
ラベルは貼られていない。
中身は、私がすべてを思い出した夜の夢だ。
灯台の下で、妹に謝り、手を伸ばし、海に沈む彼女を抱きしめる。
救えなかった事実を受け入れる夢。
終わりのある夢。
「これで最後です」
彼は静かに受け取った。
一週間後、青年は来なかった。
代わりに一通の手紙が届く。
『列車が来ました。少女も一緒でした。あなたによろしくと』
それきり彼は現れない。
夢の瓶も、彼の記録も、次第に色褪せた。
私は診察室の冷蔵庫を整理する。
瓶の光は以前より弱い。
夢を売る仕事は続けているが、自分の夢を混ぜることはもうない。
夜、眠りに落ちると、灯台の光が回る。
少女はもう現れない。
代わりに、遠くで列車が走る音がする。
規則正しく、確かに終点へ向かう音だ。
人は一晩に三つの夢を見る。
そのうち一つは、誰かのための夢かもしれない。
漏れ出し、拾われ、つなぎ直される物語。
私は今日も眠る。
もう夢を売るためではない。
自分の中で完結するために。
終わりのある夢を見るために。




