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夜をたたむ場所

 布団は、世界の境目だ。

 起きている時間と眠っている時間、今日と明日、現実と夢。そのすべての境界が、あの柔らかい重みの下に折りたたまれている。

 私は、布団が好きだった。


 特別高級なものではない。

 実家から持ってきた、少し古い敷き布団と掛け布団。

 白かったはずのカバーは、何度も洗われて色を失い、角は丸くなっている。

 それでも、横になると身体の形を思い出したように馴染んだ。

 畳の上に広げると、部屋の輪郭が少しだけ曖昧になる。

 机も、本棚も、流し台も、布団の外側へ追いやられ、そこだけが小さな島のように独立する。


 一人暮らしを始めて、三年目の春だった。

 仕事は忙しくもなく、暇でもない。

 人間関係も同じ。

 大きな不満はないが、大きな喜びもない。

 帰宅して、風呂に入り、布団を敷く。

 それが一日の終わりだった。


 布団を敷く動作は、儀式に似ている。

 床を軽く掃き、窓を閉め、敷き布団を広げる。

 ぱたん、と畳に落ちる音が、どこか安心を連れてくる。

 掛け布団をふわりとかけると、部屋は「休む場所」に変わる。

 昼間の私が使っていた空間が、夜の私のために静かに形を変える。

 その変化が、好きだった。


 ある夜、隣の部屋から泣き声が聞こえた。

 壁越しの、抑えた声だった。

 最初は気のせいかと思ったが、途切れ途切れに続く嗚咽で、確信した。

 時計を見ると、深夜一時を回っていた。


 どうするべきか、少し迷った。

 声をかけるほどの関係でもない。

 ただの隣人だ。

 顔を合わせれば軽く会釈する程度。

 名前も知らない。

 私は、布団の中で目を閉じた。

 掛け布団の重みが、胸にのしかかる。

 いつもなら安心する重さが、その夜は少し苦しかった。

 布団は世界をたたむはずなのに、たたみきれなかった何かが、端からはみ出しているような感覚があった。


 しばらくして、泣き声は止んだ。

 翌朝、廊下で隣人とすれ違った。

 若い女性で、私より少し年上に見える。


「おはようございます」

「……おはようございます」


 彼女は、少しだけ驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。

 その笑顔は、昨日の泣き声と結びつかず、私は何も言えなかった。

 言葉を選ぶあいだに、世界はもう朝になっていた。


 その夜も、私は布団を敷いた。

 布団に入ると、自然と身体が力を抜く。

 今日の出来事が、少しずつ遠ざかっていく。

 布団は、記憶を薄める装置でもある。

 輪郭の強かった感情が、綿の繊維に吸い込まれるみたいに和らぐ。


 また、泣き声がした。

 今度は、はっきりと。

 堰を切ったようではないが、確実に、誰かがひとりで抱えるには多すぎる音だった。

 私は、布団の中で天井を見つめた。

 助けを求める声ではない。

 ただ、感情が溢れている音だった。


 布団の外は、現実だ。

 声をかければ、何かが始まってしまう。

 関係、責任、言葉。

 相手の痛みの一端を、自分の生活に迎え入れることになる。

 布団の中は、安全だ。

 何もしなくても、許される。

 目を閉じてしまえば、世界は静まる。


 私は、しばらく迷い、それから、布団を跳ね除けた。

 空気が冷たい。

 足裏に伝わる畳の硬さが、決意を後押しする。

 玄関を出て、隣の部屋の前に立つ。

 ノックをする手が、少し震えた。


 数秒後、ドアが開いた。


「……はい」

 彼女は、驚いた顔をした。目元が赤い。

「うるさかったら、すみません」

「いえ」

 言葉が、それ以上続かなかった。


 沈黙が落ちた。

 廊下の蛍光灯が、かすかに唸る。

「……大丈夫ですか」

 ありきたりな言葉だった。

 それでも、言わないよりはましだと思った。

 彼女は、一瞬迷ってから、頷いた。

「大丈夫、ではないですけど」

 正直な答えだった。


 私は、少し考えた。

 正しい言葉など、持っていない。

「……お茶、飲みます?」

 自分でも意外な提案だった。

 彼女は、また少し迷い、それから、小さく笑った。

「はい」


 彼女の部屋は、最低限の家具しかなかった。

 ベッドはなく、床に布団が敷かれていた。

 私のものより、新しいが、よく似た配置だった。

 布団の上だけが、生活の中心になっている。


「布団派なんですね」

 私が言うと、彼女は頷いた。

「落ち着くので」

「分かります」


 台所で湯を沸かし、二人で湯呑みを持って向かい合って座る。

 会話は、途切れ途切れだった。

「……仕事、うまくいかなくて」

 彼女は、ぽつりと言った。

「泣くほど?」

「泣くほど、溜まってたみたいです」

 私は、頷いた。

 それ以上のコメントはしなかった。

 正論も励ましも、この部屋には似合わない気がした。


「ここ、布団敷くと」

 彼女は、部屋を見回した。

「世界が小さくなる気がしません?」

「します」

「それが、救いです」


 その言葉に、私は深く同意した。

 布団は、世界を小さくする。

 抱えきれない広さを、ひとりで抱えられる大きさに折りたたむ。

 泣く理由も、怒りも、不安も、その四角い輪郭の内側に収めることができる。


 しばらくして、私は自分の部屋に戻った。

 布団に入ると、いつもよりも早く眠りに落ちた。

 胸のあたりが、少しだけ軽い。

 誰かの夜の端を、ほんの少し持ったからかもしれない。


 それから、時々、私たちは顔を合わせて話すようになった。

 深い話はしない。

 天気、仕事、スーパーの特売。

 けれど、壁越しに伝わる気配は、以前より柔らかくなった。

 泣き声は、聞こえなくなった。


 ある休日、彼女が言った。

「布団、干しません?」

 二人でベランダに布団を干した。

 陽に当たった布団は、ふっくらと膨らむ。

 叩くたびに、溜まっていた空気が抜け、新しい光が入り込む。

「夜が楽しみですね」

「ええ」

 その夜、布団はいつもより軽かった。

 太陽の匂いがした。

 吸い込むと、昼の名残が胸に広がる。


 布団は、ただの寝具だ。

 だが、人を包み、守り、世界との距離を調整する。

 外界とのあいだに、ちょうどいい厚みを作る。


 私は思う。

 布団は、逃げ場所ではない。

 戻る場所だ。

 昼に傷ついた人間が、形を整え直すための場所。

 世界を拒むためではなく、もう一度向き合うために、小さくたたむ場所。


 夜、布団に入ると、外の音が遠のく。

 その代わり、自分の呼吸が聞こえる。

 吸って、吐いて、今日を内側に折り込む。


 今日も、布団を敷く。

 畳の上に、静かに広げる。

 世界を、丁寧にたたむために。

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