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購買で時間を潰していればよかった。中学で過ごした三年間は、楽しかったことよりも気詰まりなことのほうが多かった気がする。
教室まで戻る途中で、ミツヤとすれ違った。銀縁の眼鏡と細面で、隣に友人を連れている。知らない生徒だ。そのせいで声をかけるのをためらった。だけど、そのまますれ違ってしまうのもなんだか気まずい。
購買で時間を潰していたら廊下ですれ違わずに済んだはずだ。
友達とすれ違ったら軽く冗談でも言って別れる。たったそれだけのことがなぜかできない。知り合いの姿を見かけたとき、楽しさよりもむしろ気まずさを感じるようになったのはいつからだっただろう。
踏み出す一歩が鉛を両足にくくりつけたみたいに重たくなる。ミツヤがふいにこっちを向いた。まともに視線がぶつかる。
気が付かなかったことにしたい臆病な気分と、なにか言わなければという打算的な理性が、みっともなく頭の中で争っている。
ほんの一言でいい。「やあ」でも「よう」でも「おう」でもいい。ちょっと手を上げて相手が気が付きやすいようにして、できればちょっと笑みなんかを浮かべてみて。
「ミツヤ!」
教室から誰か飛び出してきた。
僕は彼らの横をそっと通り過ぎた。どこかほっとしている自分が惨めだ。背中越しに、ミツヤが文句を言うのが聞こえる。
「今日も馬鹿は元気だな」
機嫌を悪くしている感じでない。飛び出してきた彼のほうはと言えば、悪びれる様子もなさそうだ。
「優勝おめでとう!」
今朝の集会のことだ。ミツヤの名前が呼ばれたときには僕もびっくりした。情報技術のコンテストらしい。詳しいことはよく知らないけれど、ともかく、何かの大会に出場していい成績を取ったらしい。
テストの点数とか、いつも誰と遊んでいるとか、何に興味を持っているかとか、昔は当たり前のように知っていたことが、中学三年生になった今はよくわからなくなった。
教室から飛び出してきた彼の声がよく聞こえる。
ミツヤがどついて、どっと笑いが巻き起こる。彼らにとっての僕は赤の他人だった。
ミツヤの表彰のせいで、今日の全校集会はやけに記憶に残るものになった。いつも自分が集会の話を聞き流していたことをはっきりと自覚した。今日だってずっとぼんやりして話を聞こうなんて思ってもいなかったけれど、マイクに増幅された空気の振動は、確かに毎週僕の鼓膜を揺らしていたことは間違いなさそうだ。
『人間はハリネズミのようなものです』
誰かがそんなことを話していたことがぼんやりと記憶に残っている。人は寓話的な話に意味を見出してしまう生き物で、僕もそうだ。もう飽きるほど聞いてきた話だけれど、時間と場所が変われば、その意味合いもまた変わってくる。
ミツヤたちと離れて僕はほっとしている。誰かが得意げに話していた教訓がそのまま自分に当てはまるのはちょっと嫌だなと思った。
教室に戻ると無数の針が部屋いっぱいに散らばっている。あんな話をするくらいなら、教室の広さをせめて三倍に拡大してほしい。
「お前らなあ、そんなありきたりなアイデアじゃ最終優秀賞取れないぞ!」
ヒロトが大きな声を張り上げていた。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるのに、ヒロトはいつも声を張り上げている。文化祭の出し物で大喜利をしているらしかった。
「コスプレ喫茶!」
「陰キャかよお」
彼らは自分たちの存在を誇示するみたいに、友人と集まって真ん中の席を占拠している。今日のお昼休みは気分が悪いことばかりだ。ヒロトはちょうど僕の席についている。
「僕の席なんだけど」
ヒロトは机を叩いて笑っている。聞こえていないらしい。
「なあヒロト」
僕が軽く腕を叩くと、ヒロトは大げさに肩をすくめてこちらを振り向いた。幼いころにふくよかだった顔は、彫刻みたいにはっきりとした形を作り、力強い強い印象を与えるものに変わっていた。大柄な体はラグビーの選手みたいで、何も言われなくてもつい萎縮してしまうような迫力だ。
「悪かった」
明るい表情がぱっと消えた。授業中に回ってきた手紙を読んで楽しんでいたところを先生に見つかったらこんな顔になるかもしれない。ヒロトはさっと立ち上がり、集団の輪をぐるりと回って向こうの席に座った。
「馬鹿だな、迷惑かけんなよ」
「うるせーよ」
ヒロトの口調が砕けた調子を取り戻す。
彼らは冷たい空気をあっという間に飲み込み、明るく無邪気なものに変えていく。僕はただ自分の席に座ろうとしただけなのに、どうして悪者みたいな感じになってしまうんだろう。
「文化祭なんてやめちまえばいいのに」
僕の隣の席で、池谷が苦々しくつぶやいた。
僕はそこまで過激な意見ではないけど。言いたいことはわかる。文化祭も体育祭が、必ずしも皆が楽しめるものじゃない。
だけど、わざわざ周りに聞こえるようにそんなことを言うことはないだろう。
「これも教育の一環なんだよ」
「文化祭と体育祭を削れば志望校合格率が十パーセントはあがるだろ」
騒ぎ立てるヒロトたちを見て苦笑する。
「池谷なら何もしなくても大丈夫だろ」
池谷はなんとなくミツヤに似ている。そして、僕にも似ていると思う。勉強意欲の強さはミツヤに、卑屈なところは僕に。
「サボろうぜ」
「サボってどうするんだよ」
「図書館で数学をやる」
「本気?」
「大真面目だよ」
大、の部分を池谷は強調した。
「めちゃくちゃ不真面目だな」
「学校は勉強が嫌いなやつが多すぎる」
学校は勉強する場所なのに、それを疎かにする人が多すぎる。青春という期間は、美しくてとても良いなにかというイメージとあまりにも強く結び付いている。先生でさえ、自分たちの思う理想を僕らに押し付けて実現しようとしているみたいだ。
池谷の言うことはよくわかっていた。だけど、よくわかるような人間にならないような人生を歩みたかったとも思う。
「ひねくれてる」
「お前もな」
池谷は苛立ち混じりにつぶやいた。池谷は、近づく人にも、遠くのいる人にも等しく刃を向ける。僕らは友達なんだろうか。きっと周りの人はそう思っている。
体育の授業ではペアを組んで、お昼休みには昼食を食べ、下校時間にも時々一緒になる。それでも友達じゃないと思う。こんなやつと同類なんてまっぴらだという思いが胸をかすめる。ただ、一人ぼっちで惨めにならないための最後の手段を失いたくないというどうしようもない必要性だけが、僕らのことを結びつけていた。
池谷はなんと言うだろう。案外「俺もそう思う」とか言って皮肉な笑みを浮かべるかもしれない。
一緒にいて楽しい相手となんとなく一緒にいられることはとても運のいいことだ。そのことを当たり前だと思ってい毎日を過ごしている人もたくさんいる。ヒロトは間違いなくその中の一人で、昔の僕もそうだった。
池谷にもそういう時期があったのかなと思う。その幸運を失っていたのだとしたら、一体何がきっかけだったんだろう。
「予習やるよ。まだやってない問題があるんだ」
「真面目なやつだな」
真面目という言葉が、褒め言葉でなく軽い侮辱だということに気がつくのにはちょっとだけ時間がかかった。
一人ぼっちも嫌だったけれど、池谷と話をするのには、それとはまた違ったしんどさがある。早く休み時間が終わって授業が始まればいいと思う。そうすれば、誰とも話をしなくてもいいからだ。




