3
横断歩道の傍らに、古い事故看板がある。
『飛び出しに注意 交通事故死亡現場』
白地に描かれた赤い文字は雨に滲み、飛び散った血液が表面を伝ってやがて固着してしまったように見えた。
そんな警告なんて全く気にかけない様子で、制服を乗せた自動車の群れが交差点を走っていく。
信号が青に変わった。
「車で通学できれば二度寝できるのにな」
傍らに止まった車を横目に、池谷がのんびりとつぶやいた。
「車あんまり好きじゃないんだけど」
学校から離れると池谷は機嫌がよくなる。学校は勉強に向かない、という点では、僕と池谷の意見は一致していた。
市立図書館には学習用のスペースがある。僕は池谷から教えてもらって初めて知った。改修されたばかりで新しく、利用者の数も多い。
入り口脇の壁には、ポスターやチラシがびっしりと貼り付けられていた。
『第五十回西宮夏祭り』
紙面に埋め尽くされた掲示板の中で、その一枚が目を引いた。絵の具で描かれたポスターだ。小学生の子の作品で、一生懸命書いている感じが伝わってくる。
暗闇の中をまっすぐな道が伸びる。左右には屋台のテントが並び、ランタンやちょうちんから漏れる明かりが闇の中から浮かびあがる。
露天を歩いているのは、それぞれ赤と青の浴衣を来た少年と少女だ。少年は狐のお面をずらしてかぶっている。少女の手には水の入ったビニール袋がぶら下がり、その中には金魚が一匹だけ浮かんでいた。彼らは、紙面の向こうにそびえる山の中腹から伸びる無数の光の線を見上げていた。
山の中腹から伸びた光の矢は、ガラスの天井に接触したみたいに激しく光を撒き散らしす。その様子はたんぽぽの綿毛に似ているかもしれない。一瞬だけ空に輝いた無数の光の粒子は、すぐに夜の闇に溶けていく。
一生果たすことができなかったマコトとの約束はその足元にあった。深い後悔が胸を突き抜けるような感覚を覚えたことは何度もあったけれど、いまはそんなに辛い気持ちにはならない。麻酔注射を打たれたみたいに、ふわふわした奇妙な感覚だけがある。
「気に入ったのか?」
「小学生にしては上手だなって」
「頑張ってはいる」
池谷は絵を横目にさっさと歩いて行く。
自習室の椅子はまだ開いていた。夏祭りのポスターはここにも貼ってある。
カバンをおろして宿題の準備をする。
「池谷は見に行ったことある?」
「なんだって?」
池谷が顔を上げた。すでに問題集に向かっている。こういうところは勝てない。僕はいつも余計なことを考えてばかりいる。
「なんて言ったんだよ?」
「ごめん、なんでもない」
「余裕だな」
皮肉な笑みに悪気があるわけじゃない。そういう癖だ。だけどどうしても気に障る。僕は何も言わないことにした。池谷は僕の返事を待たず、すぐに紙面に目を落として続きに取り掛かった。
池谷は初めて会ったときからとっつきにくいやつだった。教室で楽しそうにしている相手に対して無差別に無言の敵意をぶつけていたせいで、あらゆる人から遠巻きにされていた。けれど、僕には大勢で集まってわいわい騒ぐような友達がいなかったから、その敵意をぶつけられることもなく、また池谷と関わることを避ける理由もなかった。池谷は教室の誰をも幸福にしなかったけれど、僕以外のあらゆ人を少しだけ不幸にした。
僕が宿題に取り掛かり始めたところで、池谷が口を開いた。
「行くのか?」
僕がきょとんとしていると、池谷は鉛筆の先端で、自習室の壁にも貼ってあった夏祭りのチラシを示した。
「行かない」
こういうイベントが楽しめない人が一定数いることにようやく気がついたのは、自分もそうなってからだった。明るい場所にいるときには暗闇なんて目に入らないのに、暗い場所にいると明るい場所がとてもよく見える、とは誰の言葉だったか。ただそれは、人間の目の機構はそういう風になっているというだけのことなんだけれど。
「夏祭りに出ると偏差値が十落ちるぞ」
池谷は、偏差値が十くらい落ちたところで受験なんて余裕だろう。
ふん、と鼻息を鳴らして池谷は再び問題集に戻った。池谷が頭を下げると、ガラス張りの壁の向こうに図書館の様子が見える。来館者は年配の人が多くて、中高生らしい姿は一人だけだった。
彼女は書架の間を抜けてきた。迷路で迷うみたいにきょろきょろと左右を見回し、早足に歩いて行く。僕は心臓を裏側から殴られたみたいな衝撃を感じた。
彼女はマコトに似ていた。いや、似ているなんてもんじゃない。本人だと思った。僕の知る限りマコトに姉妹はいない。それとも親戚の誰かだろうか。それなら、マコトの亡くなったときに顔を合わせていてもおかしくないはずだけど。
シャツにズボンというラフな姿。まだ帰宅するには少しだけ早い時間だ。僕と同じ学校の生徒ではないかもしれない。
「急になんだよ。おい」
池谷に声をかけられて、僕は自分が立ち上がったことにようやく気がついた。
彼女は通路の角を曲がって見えなくなった。書架の向こうに消える直前に見えた横顔は、もしもマコトが中学三年生になっていたら、きっとあんなふうだったに違いないと僕に革新させた。気の抜けた穏やかな顔つきはそのままで、いつのまにか背はちょっとの伸びている。
「マコト?」
一人掛けの机に座って新聞を読んでいたお年寄りが、ちょっとだけ顔を上げて僕の方を見た。呼びかけには誰も答えてくれない。
名前を呼んだら、すぐ向こうの書架の影からマコトが姿を表すような気がしていた。
書架の陰から足音が聞こえた。鬼ごっこでもしているみたいだ。こんなことが昔にもあった気がする。僕はとても足が遅かったから、マコトでさえ僕は捕まえられなかった。僕の目の前からさっと消えて、物陰に隠れてその姿は見えなくなってしまう。
本の整理をしていた司書は、僕がなにか悪さをしないか心配してか横目でこっちを見た。
からかわれているのかもしれない。視界の端にちらりと彼女の姿を捉えたかと思ったら、またすぐに見失う。
貸し出しカウンターの前で、ようやく見つけた。お気に入りの本を見つけて軽やかに外に出ていくようなあの姿は、マコトそのものだ。
何を言ったら良いだろうか。でも本人のはずがない。血縁者かもしれないし、もしかしたら奇跡的に似ている赤の他人ということだってあるかもしれない。
「何やってんだ」
肩に手が置かれた。池谷が怪訝な表情を僕に向けていた。
「さっきから何やってるんだろ」
「ちょっと、えっと……」
「帰りたいなら帰ればいいだろ」
「違うんだ、知り合いを見かけて」
うってかわって、池谷は心配するような表情を向けてきた。
「大丈夫か」
「僕そんな焦ってた?」
「生き別れた親なり兄弟なり見つけたのかと本気で思った」
池谷は冗談のつもりだったんだろうけれど、の反応は、図星を突かれた人のそれだっただろう。
「僕は一人っ子だし、両親も健在だし、身内から失踪者は出てない」
池谷は疑り深い表情をよりいっそう疑り深い感じにした。
「俺は戻ってる」
池谷は話を切り上げて自習室に戻っていった。傍らの柱には、夜空に咲く火花のポスターがある。池谷の後ろ姿をぼんやりと眺めているうちに、やっと図書館の利用者が僕に不を不審がっていることに気がついた。
図書館の外に出て見たけれど、周りにはもう誰もいない。自習室に戻っても、宿題はびっくりするくらい進まなかった。




