10
自宅の正面まで来たところで、マコトが僕の部屋の窓から顔を出しているのに気がついた。
「木を伝っていけばなんとか降りられるかもしれない」
できるかもしれないけれど、僕はやったことがない。
「どこ行ってたの」
「図書館で勉強してた」
マコトは僕の目をじっと見つめた。嘘をつくのは苦手だ。バレていないと思っているのが自分だけかもしれないと不安になる。
「何かいいことあった?」
「いつもと変わらないつもりだったけどな」
「なんとなく、嬉しそうに見えたよ」
「夏休みになったからだ」
「どこか行くとか?」
「宿題をやるけど」
「昔は宿題なんて絶対やらなかったじゃない」
受験生なんだから、と返事をしかけたところで気がついた。マコトも、自分の言葉の衝撃に口をぽかんと開けたままでいた。
「今なんて言った」
「覚えてる。夏休みはミツヤの家に行った。本がたくさんあった」
「足がカーブしてる大きい椅子のある」
「そう!」
マコト自身も、いつのまにか頭の中に戻ってきた自分の記憶に驚いていた。
他に思い出したことを聞いてみたけれど、マコトの記憶はまだ不完全のようだった。自分の記憶を取り戻したことに対する驚きと喜びはあっても、戸惑いや恐怖の色が見えない。もしもマコトが生きてきた記憶をすべて取り戻したとしたら、命を断たれる瞬間の光景が鮮明に思い出せるようになるに違いない。
あまりに苦しい体験に対して、人はその感覚を受け入れることを拒絶するように設計されている。マコトの記憶が不完全なことは、それと何か関係があるだろうか。
「マコト、僕の宿題がちゃんと進んでいたら、夏祭りに行かないか」
「算数だったら任せて」
「算数は数学になったよ」
マコトの知識は小学四年生で止まっている。
「……何が違うの」
「数字がxとyになった」
へえ、とマコトはわかっているのかいないのか曖昧な反応をする。手伝ってもらうことは望めないし、そうだったとしても人にやってもらうのはあまり良くない。
「ちゃんと終わらせるよ、当たり前だろ」
「待ってる」
ずっと放り出してきた宿題だった。いい加減手をつけなければ、もう一生終わらせることはできないだろう。
マコトは椅子の背に手を置くと、椅子が回転した。驚いたみたいに手を離し、もう一度ゆっくりと椅子の背を掴んで引っ張ると、力をかけた方向に椅子が移動した。足についたローラーは、僕がそうした時と同じように普通に動いた。
「触れる」
椅子の背を揺らしながら呟いた。もしかしたらマコトは、本当にこの世界に戻って来ようとしているのかもしれない。