AARONの第2のアナグラム
アナグラムANAGRAM自身のアナグラムには、
ANAGRAMS (アナグラムの複数形)⇔ARS MAGNA (ラテン語で「偉大な芸術」の意)、というのがあります。
これは私の作品ではありません。
私は英語以上にラテン語に精通していないので「なかなか素晴らしい出来だな」くらいの感想しか持てないのが残念です。
改めて書いておきますが、私は英語に精通してはいません。
例えば、サーズデー(木曜日)の綴りなどもすぐには出ません。
いや、THURSDAYは出るか。
WEDNESDAYも覚えている。ウェドネズデイの語呂で。
しかし、ちょっと難しい単語になると辞書に頼ります。
慣用句や連語表現なども、覚えきれるものではないと考えています。
英語の学習に、ざっと10年以上かけているにも関わらず、です。
そもそも身近に英語話者がいない。
なんで英語勉強してるの?
楽しいから。
英語を学びつつ日本語や世界の知識を学び、言葉と言葉、言葉と知識を関連づけ、それをキャラクターや小説に反映させるのが。
楽しいとか、嬉しいといった肯定的な感情がなければ、人は研究なんかしない。
この楽しいとかの感情は、己の能力をうまく発揮できたときの感情かなと思います。
つい最近、私の生活の中でぶつかった「数独における仮置法の是非」という議題の話がこれに関わってきますね。
ちょっと話してみましょう。
数独、ナンバープレイスは、9×9マスの枠の中に、1~9までの数字を入れていくパズルゲームです。
ルールは、同じ列・行に同じ数字を入れない。
さらに、9×9マスを9つの3×3で区切ったそれぞれの枠にも、同じ数字を入れない。
出題される問題は、いくつかのマスにあらかじめ数字が記入されており、それを手掛かりにルールを守って数字を入れていく。
この時に、どこにどう数字が入るかの論理的な推理方法が、いくつか解明されているわけです。
出題する側も、それらの推理方法で解けるように問題を作る。
が、問題を解いていくと、それらの方法で解けないものにぶつかる。
解く方に見落としがあるか、はたまた出題者が間違えたか…
何度も確認し、見落としなんてない!と思うものの、出題が間違っているとも言えない。
そんな時に使用されるのが「仮置法」です。
あるマスに、実際に数字を入れてみる。
すると、その列や行や3×3マスには同じ数字が入らないから…と推理の波紋が形成され、問題解決の糸口になる。
もしその仮置きした数字が矛盾せず、全てのマスを埋めることに繋がれば良し、もし矛盾したら他の数字をいれて再挑戦する、という手法。
総当たりの概念に近いですね。
そして、この手法がアリかナシか、で意見が分かれるわけです。
それが「数独における仮置法の是非」という議題。
数独に限らず、暗号などは、総当たりで1から順に全てのパターンを試せば、力技で解けますよね。
でもそれはパズルではない。
推理、論理、根拠、理由などが「わかって」解けるのがパズルだという感覚。
ジグソーパズルは絵柄を見比べて、ピースの場所を推理する。
全て真っ白のピースなら難易度は上がるが、まず四辺の真っすぐなピースから埋めていき、ピースを凸凹のパターンで分類、ヒントの多い四隅から順に凸凹を見比べて潰していくのがセオリー。
パズルのもつ「テーマ」を理解し、「手法」を理解し、「技」を使って攻略する。
それが総当たりにはない。
頭を使う必要がない。
それは「パズル」ではない。
となるわけです。
まとめてしまうと、「仮置法」を使うとパズルが解けても楽しくない、自分の力を使って解いてないから気持ち良くならない、パズルを解くことで得られる知的な栄養が摂取できない、だから「仮置法」は使用の是非が問われている、という話。
もちろん出題者・解答者双方の見落としという問題や、とりあえず解けたことにして次に進むという時に使えるテクニックでもあるために、私は「ナシよりのアリ」といった立場。
アリかナシかを断ずる必要のない議題でしょう。
パズルを解く、問題を作る、その解法について議論する。
それぞれに人の能力が発揮され、目標が達成され、楽しさや喜びがある。
なぜ英語を勉強するのか?という問いは、楽しいから、という単純な答えを求めているわけではなく、
それが具体的にどのような能力・知識・生活と結びついているのか?という問いだと考えられます。
私にとって、英語って、ただの外国語の1つに過ぎないのだけど。
私にとって、英語は生活にほとんど必要ないのだけど。
私は、英語にあまり興味ないのだけど。
あなたにとって、英語って、なんなの?
あなたは、英語で、何ができるの?
あなたって、どういう人なの?
いろんなことを知りたいし、今じゃなくても教えて欲しい、といった時に、人は曖昧な質問をする、と言えそうです。
次、AARONの第2のアナグラム。
ほんま寄り道すっきゃな~。
AARONの第2のアナグラムは、A ROAN (一頭の粕毛の動物【馬】)です。
実はこのアナグラムの方がAN OAR (一本の櫂、オール)より先に思い付いていました。
しかし「粕毛(カスゲ、糟毛とも)」の実際の様子がよくわからない。葦毛と混同されやすい。
馬の体の色は肌と毛の色で決まるのですが、粕毛は、元々の白くない毛に部分的に白い毛が混じり、体の一部または全体が白っぽく見えるもののこと。
一方、葦毛は、肌が黒く、毛が白いので、全体として灰色にみえる。加齢とともに真っ白になることもある。
馬を識別する際、人は馬の顔の違いがほとんどわからないので、体の色で識別するしかないわけです。
だから、粕毛、葦毛、栗毛、白毛、鹿毛、青毛などの言葉がある。
現代日本人にはあまり馴染みがないですが、馬は軍馬として乗ったり、運搬作業・農作業などに利用されてきた、人間にとってとても重要な役割を果たしてきた動物。
ではあるのですが、やはり馴染みがない。
競馬場、牧場で見ることはできる。
触ることも。
しかし、細かい毛色の違いなど言われてもピンとこない。
要は、馬の細かい毛色の違いを読者に説明し、それをストーリーに組み込んで、その効果によって小説を面白くすることのコスパが悪い。労力に効果が見合わない。難しい。僕にはできない。
例え僕が牧場生まれであっても難しいでしょう。
ということで、他にいいアナグラムないかなと考えていたところ、OARという言葉と冠詞のANの組みあわせに気付いたわけです。採用。すてき。
まあ、粕毛を白髪の一種と考えると、違う連想ができるんですけどね。
『FFX』のアーロンさんは35才という設定ながら白髪があり、見た目と年齢のギャップも印象的。
そう、白髪は「高齢」「時間経過」「苦労」「精神的負荷」といったイメージにつながってます。
黒髪フサフサのおじいちゃんキャラってあまりいない。
『出エジプト記』の話のところで触れましたが、モーセやその兄アロンは80代のおじいちゃんです。
つまり、神は「おじいちゃんズ」に「エジプト王こらしめ大冒険」をするよう命令したのです。
聖書はちょっと年齢設定が「攻めて」ますね。
アダムは930歳まで生きたとか、ノアは500歳で子をもうけたとか。
まあ彼らは神に近い存在なので仕方ないですが。
まとめると、こちらのアナグラムはアアロンAARONを白髪のある高齢の人、もしくは苦労人というイメージにしてくれるということです。
アリっちゃアリだけど、粕毛関連の知識が必須ですかね。
ま、アアロンAARONに関しては一旦この辺で。




