29話 愛しのジーナ
この方が……あのジーナ様。
六歳の私にさえ聞こえていた、彼女への悪意ある噂。
どこへ行っても陰口を叩かれ、笑われ、時には露骨に避けられていた。
そんなジーナ様が今、目の前でノア様と楽しそうに話している。
柔らかな笑顔を浮かべて。
「アロア様。ジーナ様って、本当はこんなにお話しになる方だったのですね」
隣にいたエレノアが、声を潜めて私に囁く。
私も同じことを思っていた。
これまで耳にしてきた噂とは、まるで違う。
もし今なら……聞けるかもしれない。
ずっと胸の奥に引っ掛かっていたことを。
リオお兄様のことを。
「ノア様。私もジーナ様とお話ししてもよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだな。俺ばかり話してた。ごめん」
私はノアの向かい側、ジーナの左手側へと腰を下ろした。
大きく息を吸う。
そして、ゆっくりと吐き出す。
胸の奥が、嫌になるほど騒がしい。
六歳の子供だったなら、こんな緊張などしなかっただろう。
けれど今の私は、王族として。
そして、一人の人間として。
ジーナに向き合わなければならない。
私は文字盤を見つめ、指を動かした。
『あ ろ あ で す』
「……」
ジーナが私を見る。
「はじめまして、アロア殿下。ジーナと申します」
穏やかな声だった。
私は文字を一つずつ並べる。
『よ ろ し く』
「はい。よろしくお願いいたします」
その笑顔は優しかった。
だからこそ、私は尋ねることにした。
ずっと知りたかったことを。
『じ ー な さ ま』
「はい」
『り お す き ?』
「……え?」
ジーナの表情が僅かに固まる。
そして、少しだけ困ったように微笑んだ。
「リオ様は、私の婚約者様でございます」
それは事実だ。
けれど、それも今では変わろうとしている。
別の婚約者候補が現れ、ジーナとの婚約を解消する話まで進んでいる。
――私は、決断できないでいる。
だからこそ、次に続く言葉が怖かった。
「ですが……それも、もう終わりにせねばならないのでしょうね」
その声は、ひどく寂しかった。
私は息を呑む。
『り お』
『き ら い』
『な つ た ?』
問いかけた瞬間だった。
「まさか!」
ジーナの声が震える。
「そのようなこと、あるはずがございません!」
瞳に涙が浮かんでいた。
「私は……心からお慕いしております」
一滴。
涙が頬を伝う。
「本当なら……ずっと、お側でお支えしたかった」
「……」
「長い人生を……リオ様と共に歩みたかったのです」
その言葉が、胸に突き刺さった。
私は、何も知らなかった。
彼女がどれほど私を想っていたのか。
どれほど婚約者としての未来を信じていたのか。
そして――その未来を失うことを、どれほど恐れていたのか。
なぜ私は、気づいてやれなかったのだろう。
なぜ彼女の悲しみに目を向けなかった。
なぜ……。
私は、彼女の手を離してしまったのだろう。
後悔が、胸の奥から込み上げてくる。
私は震える指で、ゆっくりと言葉を作った。
『わ た し も だ よ』
『じ ー な』
「アロア殿下……?」
違う。
私が伝えたいのは、そんな言葉ではない。
私は文字盤を置き、ジーナの耳元へ顔を寄せた。
そして、少しだけ声を張る。
「私は……リオだよ。ジーナ」
届くだろうか。
私の声が。
私の想いが。
「……リオ、様?」
「そうだよ。リオだ」
ジーナの指が、ゆっくりと私の頬へ伸びてくる。
震える指先が、そっと頬に触れた。
「リオ……様」
「うん」
「リオ様……」
「そうだよ」
「リオ様ぁ……」
堪えていた涙が、一気に溢れた。
ジーナの顔が歪む。
「お会いしたかった……!」
「うん」
「ずっと……お会いしたかったのです!」
「うん。ごめん……」
「その手に……触れたかった……!」
「うん」
「お声を……聞きたかった……!」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
これほど簡単な願いだったのに。
私は、それすら叶えてあげられなかった。
「……すまない、ジーナ」
私は泣き崩れる彼女の肩を抱き寄せた。
腕の中で震える身体が、あまりにも小さい。
私はその背をそっと撫でながら、何度も心の中で詫びた。
もっと早く、あなたの声を聞けばよかった。
もっと早く、あなたの隣に立てばよかった。
そして何より。
もう二度と、あなたの手を離したくない。




