28話 『い い よ』
誰かが私の膝に、木の板に彫られた文字の表を置く。
そして、私の指を文字に置いて文章を作る。
『こ と ば』
『つ く る』
『じ ー な』
『は な す』
「叫ぶのは喉が痛くなるのでぇ!!! 板で文字を作るので、喋ってください!!!」
「……はい、わかりました」
そう答えたものの、私はしばらく動かなかった。
喋る。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
六年間。
自分の声が誰かに届くことなど、考えたこともなかった。
そもそも、自分の声がどんなものだったのかさえ、もうよく覚えていない。
「……声を、出せばよろしいのですね?」
『は い』
「……聞こえますか?」
『は い』
即答だった。
その瞬間、私の指先がわずかに震えた。
聞こえる。
私の声が。
誰かに届いている。
「……では」
一度、唇を閉じる。
呼吸を整える。
「……こんにちは」
声が出た、と思う。
自分の喉から生まれた音が、空気を震わせる。
けれど、自分には聞こえない。
それなのに――。
『こ ん に ち は』
すぐに返事が返ってきた。
「……」
私は何も言えなかった。
ただ、唇をきゅっと結ぶ。
『?』
「……いいえ」
大丈夫。
そう言おうとしたのに、声が少し震えた。
「……本当に、私の声が聞こえているのですね」
『は い』
ちゃんと。
その言葉が、胸に刺さった。
ちゃんと、私の声が届いている。
六年間、誰にも届かなかったと思っていた。
何かを伝えたくても伝えられず、誰かの声を聞きたくても聞けず。
世界から取り残されたような気がしていた。
それが今は――。
「……不思議です」
『?』
「私が話して……あなたが答えてくださることが」
『ふ つ う』
「……そうですね」
普通。
昔は、何も考えずにしていたこと。
けれど今の私にとって、それは奇跡に近い。
文字板を指で示される。
『な ま え』
『の あ』
「……存じております」
『あ な た は ?』
「私は……」
一瞬、言葉に詰まる。
「ジーナ・ストラディです」
『よ ろ し く』
「……よろしく、お願いいたします」
胸が、また少しだけ温かくなる。
名前を告げる。
それだけなのに。
誰かと初めて会った日のような気持ちがした。
『す き』
『も の』
『な に ?』
その言葉を口の中で転がす。
「……好きなもの」
考えてみる。
花。
読書。
乗馬。
――乗馬。
その言葉が浮かんだ途端、胸の奥が痛んだ。
六年前。
あの頃も、私は馬が好きだった。
馬に乗ることが楽しくて。
風を感じることが嬉しくて。
まさか、その日を境にすべてが変わってしまうなんて、思いもしなかった。
「……花、が好きです」
ようやく答える。
『は な !』
「はい」
『ど ん な ?』
「……そうですね」
考えようとした。
けれど、今の私には花を見ることができない。
以前なら、色や形を思い浮かべながら答えられたのに。
「……分かりません」
『?』
「今の私には、もう見ることができませんから」
自分で言ってから、胸が締めつけられた。
しまった。
悲しい声を出してしまった。
せっかく、楽しく話していたのに。
「……申し訳ございません。つまらない話を――」
『お し え る』
「……え?」
『の あ お し え る』
あまりにも迷いのない声だった。
『い ろ』
『か た ち』
『に お い』
『の あ お し え る』
「……」
胸の奥が、じんと熱くなる。
そんなことを言われたのは初めてだった。
この方は違う。
できないなら、自分が教えると言ってくれる。
「……ノア様」
『は い』
「どうして……そんなに親切にしてくださるのですか?」
少しの沈黙。
返事が無い。
ノア様は考えているようだった。
『じ ー な と』
『は な し た い』
「……私と?」
『は い』
その答えが、あまりにもまっすぐで。
私は、思わず微笑んだ。
「……そうですか」
たったそれだけの言葉。
なのに、心が満たされていく。
もっと話したい。
そんな気持ちが、胸の奥から静かに湧いてきた。
六年間、ずっと忘れていた感情だった。
「……ノア様」
『は い』
「もう少しだけ……お話ししてもよろしいでしょうか?」
声が震える。
けれど今度は、悲しいからではない。
『い い よ』
返事を読んだ瞬間。
私は、そっと目を閉じた。
見えない瞳の奥に、六年前の世界が浮かぶ。
笑い声。
風の音。
馬の蹄の音。
母の声。
そして――。
もう二度と戻らないと思っていた、あの日までの世界。
けれど今。
その世界とは違う、新しい『音』がある。
目が見えなくても。
耳が聞こえなくても。
誰かが自分に言葉を返してくれる。
それだけで、世界はこんなにも温かくなるのだと。
私は、初めて知った。




