第8話 アートマン
魔導師団本部の長廊下をユリウスは歩いていた。
大広間を抜け、広い階段を上がり、無駄に大きい扉を開ける。
赤い絨毯の敷かれた部屋。
中隊規模なら余裕で入れるほどの広さを持つ部屋、正面には荘厳な装飾の施された大きな椅子がある。
「あなたはずっとここに居られますね。ウェンディ殿」
窓辺に置かれた小さな机と椅子に座る一人の男を見つけた。
黒のコートを身に纏い。仮面をつけた黒髪の男か女かもわからない。
紅赫伯以上の階級を魔術使いに与える叙勲式などで使われるこの大部屋は、基本的に催事以外で使われることはない。
そんな無駄に広い部屋に常にいるウェンディ・アートマンという人間が、ユリウスは引っかかっていた。
「居たら悪いのかね?」
「……わりと悪いですね。魔導師の中には不気味な徘徊老人として恐れる者もいますよ」
「そうか……そうか………」
窓辺の机にてワインを嗜むウェンディは背中を丸めて落ち込んだ。
六賢人の一人、アートマン家の現当主。
魔術学院と孤児院の運営に加え随行魔導師と騎士の任命の儀を執り行う、魔導師団とは異なるグランクレイグの影の立役者とも呼ばれる一族。
「この部屋は落ち着く。かつての王の力を感じられる」
「魔王のことですか」
「いや、それよりもずっと前の王だ」
「ずっと前?」
先代の魔王のこと……ではない。
まるでマグナギウスという呼び名の前の話をしているような口ぶりだった。
(いや、そもそも今の魔王はいつからあの座にいる? 僕が子供の頃から魔王が変わったことがないはずだ)
何故、今になってこんなことに気づくのか。
ユリウスは首筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
「それは……""空白の章""の話ですか?」
この大陸の歴史の中で、誰かが意図的に消したとも呼べる時代の空白。
それが""空白の章""と呼ばれる時代だ。
「さあ、どうだろうな」
グラスを揺らしながら赤い液体を眺める。
六賢人の中でこの人間が一番掴めないところがある。
代々魔導師団の幹部として務めてきたバルファローネ家、ハーシェイド家、アルヴェイン家。
画家として今はひたすらに絵を描き続ける変人が当主の錬金魔術の家系リューゲンハイト家。
好き勝手に行動するせいで魔導師団の監視下にある娘を抱えたトルメリア家。
アートマン家は六賢人の中で謎が多く、目の前の現当主が何歳なのかも、子供がいるのかもわからない。
「あなたは何を知っているのですか」
「何も……だよ。私は何も知らないよユリウス」
仮面の下には何が隠されているのか。
「この世界の何を知っているのですか」
「何も、だ。言えることは何もない」
「それは──」
「私は魔王の命にてここにいる。君にその資格があるというのなら会いに行くといい」
「っ……!」
まるでこちらの考えを見透かされているかのような言葉を静かに投げかける。
「あなたは──!」
「全てを知る覚悟があるのならば会いに行くといい。私はそうしたのだから」
仮面の奥に赤い瞳が覗く。
「巡礼の騎士と随行魔導師が帰って来たのだろう? 彼らはきっと気づいている。そして、知る資格と覚悟がある」
「……ええ、わかっていますよ。アロットもフェリシアも覚悟を決めている」
自分だけが恐れている。
この世の人類全てがモンスターという真実を信じたくない。
(なら、僕の妻は……娘は……)
そこまで考えてユリウスは息を止めた。
今更そんなことを知ったところで何かが変わるものでもない。
迷いはない──はずだ。
「僕らは人としてこの世界に生きている」
この世に生きる人々を、今を否定したくはなかった。
何も語ろうとしないウェンディにそれだけを告げる。
この人は何も教える気がないのだ。諦めて立ち去ろうと背を向ける前に、最後に一つだけウェンディに言葉を投げる。
「そのワインは随分と独特な香りをするものですね」
「そうだな。これを知ってしまってはもう戻れんよ」
ゆっくりとグラスに口を付ける。
金糸の装飾の施されたコートを翻し、ユリウスは立ち去る。
胸に刻まれた魔導師団の紋章を強く握りしめた。
「ユリウスよ。相変わらず君は英雄的だな」
グラスを置いたウェンディは窓の外を見た。
グランクレイグの街並み。古い建物はその先端が槍のように尖った屋根をしている。
「モンスターではなくとも、どうせ人々は争う未来だ」
広い部屋に誰にも聞こえない声が反響した。
「所詮、無垢な少女の夢でしかないと私は思うよ」
錆びた味を噛み締めると、ウェンディは息を吐いた。
「…………徘徊老人は言い過ぎじゃないか?」
自分には傷つく心がまだあるのだと、仮面の下に笑みを浮かべた。




