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やさしいのろい

 妻は人外だった。乙女の姿のへびだった。


 夫は何世も前からのつがいだが、何百回生まれ変わっても人間に生まれついてきた。


 どうしてそんな運命なのか、二人は知らない。何かそこらの土地神の怒りにでも触れて、何千年何万年も昔に呪いでも受けて、それでこんなせいを生きているのだろうか。


「きっとさ、土地神はぼくのことが好きだったんだ。そんで『私のものになれ』って高飛車に命じたんだけど、ぼくはもうその時きみを愛していたから、きっぱり断ったんだよね」

「……それで、神様の怒りを買ったわけ?」

「そ! そんでぼくは何回生まれ変わろうと人間、きみはずっと前から池底の主の蛇の化身で、ぼくの転生を無限に待つはめになったのさ!」


 そんな他愛もないことをしゃべって、二人は笑った。笑うしかない、いつかまた来る別離わかれを想うと。今はすがるように幸せをむさぼり、むさぼりながら時おり夢にうなされて、たまゆらの幸福を生きていた。


 しんしんと時は過ぎていき、夫は歳をとっていった。妻は歳などとらなかった。


 おおきな池の底の城で、夫婦はひっそり生きていた。妻の魔法で空気の満ちた城の中、おとぎみたいに生きていた……時ばかり、しんしんと過ぎていく。


 窓の外を泳ぐ魚はひらひらと、春には桜の花びらが池底に積もり、秋には赤や黄の落ち葉が沈み、冬はつうんとただ冷たく、何度もなんども季節は巡り、とうとうおしまいの季節が来たと、妻は胸にみ入るように感じていた。


「忘れていいよ」

 夫は、しわくちゃのくちびるを緩ませて何度もこう言った。


「忘れていいんだ、次のぼくが生まれてくるまで……ゆっくり、ゆったり、待っていて……」


 黙ってってうなずきながら、妻は心で首をふる。


 ――忘れるなんて。あなたのことを忘れるなんて。出来るわけない、この心には全てのあなたが降り積もり、何世分も甘い記憶のミルフィーユみたいに、層になっているんだから。


 妻がそう想っていることも、ほんとはみんな分かっているような笑顔を遺し、夫は静かに目を閉じた。見えない魂も老いた体から抜け出てしまって、妻は夫の体を魔法でそっと消し去った。


 ……亡骸も涙の出るほど愛しいが、何世分も全ての遺体をとっておいたら、池底の城が埋まってしまう。だから妻は涙しながら、夫の遺体を魔法で消した。夫の体はふぁっと雪のように、羽根のように舞い散った。舞い散りそっと空気に溶けた。


 忘れていくことに気づいたのは、それから間もなくのことだった。


 夫の好物が思い出せない。

 卵たっぷりにミルクを混ぜた、プレーンオムレツのケチャップがけ?


 ミックスナッツに砂糖衣を絡ませた『ほろ雪ナッツ』?


 鶏のガラでダシをとって、野菜とベーコンをたっぷり入れたあたたかいスープだったっけ……?


 そこで、妻は初めて知った。

 夫は呪いをかけたのだ。この自分に、『忘れる呪い』を。


 人間の身にすぎなくとも、長年異形の蛇のそばで暮らしていたら、多少は魔力も移るのだ。だから夫は、最期の力をふり絞って、私に呪いをかけたのだ。


 ……ずっとずっと憶えたままで待っていたなら、気が狂ってしまうだろうと。


 私を想って。私の弱さを想って、あなたは。


 ああ、今やっと想い出した。

 あなたはこうして何回も、私からあなたの記憶を毎回消していたんだわ……。


 想い出す。もう一度再会出来れば、きっと全てを想い出す。今はただたったそれだけが、独り生きていく希望だった。


 それから妻は、永いあいだ池底の城でぽつんと暮らした。忘れていく、忘れていく、わすれていく。


 彼の好きだったこと、好きだったもの、どんな声でしゃべっていたのか、どんな顔をして笑っていたのか……彼の名前さえ想い出せないことに気づいて、妻は泣いた。狂っても良い、おかしくなっても構わないから、ずっと憶えていたかった。


 ……妻はそれから、笑いも涙も忘れてしまった。綺麗なお人形みたいに、うっすらとうろこの浮いた白い肌で、しいんとソファに座っていた。


 百年経った。ふうっと城の中に何者かの気配が満ちて、妻の背中に迫って来る。気配は人の姿をして、かっしりと妻の肩へ手を置いた。


 抜け殻のようになった人外の蛇の乙女を背中から抱きすくめ、その首すじにあまりにもやわく口づける。


 ……淡い緑の髪に、エメラルドのような深いみどりの瞳、薄茶色の肌にうっすらと木肌の模様のついた人外は、しみじみと沁み入るように微笑んだ。


「……帰ってきたよ、オピス……」

 ふいに己の名を呼ばれ、赤いあかい妻の瞳にひとかけらの生気が戻る。ゆっくりゆっくりふり向くと、もう一度そっと、今度はほおに口づけられる。


「神様の呪いがやっと解けたのか何なのか、ほんとはなんにも分からないけど……ぼくも人外に生まれ変わったよ、くちなしの木の人外に……」


 オピスの目が、綺麗な赤い鏡のように潤んできて……しゅんと透ける熱いしずくが、恵みの雨みたいにしたしたほおをこぼれ落ちて。


 夫の頭につんと二対、角のように木の枝が伸び、みるみるうちに白い白いつぼみをつけて、ぽくんと柔く花ひらく。


 八重咲の雪色のくちなしが、ふわんと甘い香りを吐いて。とろけるような優しい香りが、何よりの祝福のようだった。


 妻は何度もまばたいて、それから急に恥じらうようにちょっと顔をそむけた後、素晴らしく生き生きと微笑んだ。


「……久しぶりに、あなたの好物を作りましょうか。クルミにメープルシロップの衣をまとわせた、甘いメープルウォールナッツを……!」


 妻は涙を拭いて笑って、弾けるようにうなずく夫に軽くお返しのキスをして、いそいそ小さなキッチンに向かう。


 流れるように甘えるように後を追う夫の背中で、窓の外の小魚たちがひらひら泳ぎ、上から青葉が一枚ゆらゆら落ちてきて……、


 優しい呪いは、しばらくはもう、必要ない。

 もうじき、夏だ。

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