まずはやさしい『おかゆ』から
「死ぬしかないわね、このままじゃ」
つぶやくようにささやくように、美女は言葉を口からこぼす。レースのカーテンが揺らめいて、ひらひら昼下がりの光を透かしてひらめき、青年のほおをかすかになぶる。
旅姿の青年は、ひらっとレースを手でよけて、うなずくように頭を振った。
「……なぜそんなことを? 出逢ったばかりで死ぬなどと、ぼくは聞きたくありません」
「聞きたくなくても、事実ですもの。この『幻想図書館』は、人外のわたしが長い生涯でこつこつ集めた本を並べて……でももうだめよ、わたしはもうじき死ぬんだわ」
「……どうして?」
「どうしてって、わたしは物語を食べて生きる人外ですもの。物語に作者が込めた祈りや願い、執筆にかけたエネルギー……書かれた当時の歴史や何か、そんなものを文字から得る生き物が、お話を読めなくなって何百年……もうじきわたしは飢え死にするわ……」
「……それでは、ご自分で何かお書きになっては? あなたの食べたいような、新しく素晴らしいお話を……」
「それもずいぶん前から試して、それでもそれも無駄だった……もうわたしは物語なんて、一文字だって書けやしない。何を書いても、何を読んでも美味しいなんて思えないのよ……」
たまたまここを訪れた、初対面の旅人は、声もなく一つうなずいた。すっと分厚いマントを脱ぐと、旅のほこりに薄汚れた白衣がふっとあらわになった。
「……奇遇ですね。ぼくは人外のお医者もやっている者です。あなたのような症例の方には、難しい本や壮大な悲劇はかえって体に悪い。そうですね、まずはじめは『おかゆ』から慣らしてゆくのが良いでしょう……」
「……おかゆ?」
まゆをひそめる人外美女に、青年はそっと本棚から一冊の絵本を抜き出した。青空の下、草原に溶けかけた雪だるまの描いてある、いかにも優しげな表紙だった。
「……くだらない。そんな子どもだましの一冊で、この病が治るわけが……」
「それでも、この図書館にあるということは、あなたが以前に選んで置いたということでしょう?」
微笑みながら返されて、美女はきゅうっと口ごもる。青年は美女のとなりに近づき、かたわらの椅子に座るようにとうながした。しぶしぶ座った美女のとなりの椅子に腰かけ、青年は優しい声で、幼い娘に語るように読み始めた……。
……やがて一冊を読み終えた時、美女はくったりと青年の肩に顔をもたせて眠っていた。青年はそのまま微笑みながら、起こさぬように黙っていた。
日の沈むころ目覚めた美女は、少しだけ満たされたおなかをさすり、さすりながらこう申し出た。
「お医者様……どうかこのわたしのために、今しばらくこの図書館に滞在してはいただけません?」
医者は微笑ってうなずいた。そうしてその日、その夜から、少し不思議な図書館での同居生活が始まった。
* * *
美女は医者をもてなした。医者の青年にベッドと食事を提供した。体を洗うのは近くに沸き立つ『熱い泉』で……。
美女は図書館のすみのキッチンでいろいろ美味しいものを作り、青年はお返しに絵本を読んだ。わずかにかさついていた美女のくちびるは少しずつ艶を取り戻し、笑顔も健やかになっていく。
おかゆばかりを食べる日々から、ゆるやかに病は改善していった。絵本はやがて児童文学、詩から短編、半年をこえるころにはようやく長編小説になり……久々にマントをはおりながら、医者はふわりと微笑んだ。
「もう大丈夫そうですね……それじゃあ、ぼくはそろそろおいとまを……」
言いながらもどこかためらう白衣のすそを、美女は黙ってしっかとつかむ。
「……あなたがいなくなると、また病がぶり返しそうな気がする。何でか分からない、あなたがいると世界の見え方が変わるよう……ずっとこの図書館に……わたしのそばに、いてほしい……」
青年は穏やかな目に美女を映して、静かに何度かまばたいた。それからふっと涙なしに泣き出すように微笑んで、美女の手をそっと優しく握る。
「それじゃあ、きみにお話をしてあげよう……昔むかしの異世界の、とある二人の物語を……」
青年はもう一度その場に腰を落ち着けて、ゆったりとゆっくりと話し始めた。
「昔むかしのその昔、愛する男女が住んでいました。女性は物語を食べる人外、男の方も人外でした。ところがある時、女性の方が『世界の継ぎ目』に迷い込み、他の世界に飛ばされてしまったのです……」
目を見張る美女の手をとって、それは優しくさすりながら、青年は言葉を重ねていく。
「……青年は継ぎ目に飛び込んで、彼女を探し始めました。でも飛ばされる世界はランダム、いろんな世界でつぎつぎ継ぎ目に飛び込んでも、なかなか彼女には出逢えません。そうしてそのまま何百年、何千年の時が過ぎ去り……」
透けるような美女の青いあおい瞳に、潤んでにじんで医者の姿が。せわしくまばたく美女の瞳を見つめつつ、医者は言葉を連ねてゆく。
「……そうして一方、彼女は異世界で本を読み、やがては図書館を造りながら、彼の訪れを待ちました。待って待って待ちくたびれて、彼女はやがて絶望し、知らぬ間に記憶もなくしてしまい、生きる気力も失って、物語を食べる食欲さえ消え失せて……」
言いかけてふっと言葉を切った青年が、あとはもう……と言いたげに美女にしみじみ微笑みかける。
「……そうして、こうして二人は再会したんだ。久しぶりだね……」
そこで初めて、再会してはじめて青年は美女を柔らかく抱きしめて、そのほおへ静かに口づける。
……もうほろほろと泣き濡れている愛しいひとの涙を拭い、ほんのちょっぴりからかうように、耳もとで甘くささやいた。
「どうする……これから二人どうにかして、元の世界に帰るかい? でもそうすると、せっかく集めた本たちと、この図書館が惜しいねえ……」
「……どこだって良いわ……あなたと二人で、いれるなら……」
耳もとでささやき返し、きゅうっと白い手で抱きしめてくる愛しいひとに、青年の翠の目からも熱いものがこぼれ出る。
――本棚のすみ、溶けかけた雪だるまが描かれた絵本がちゃんと収まり、そんな二人を見守っていた。
* * *
時は流れた。素晴らしい『幻想図書館』には今や館主が二人いて、うわさを聞きつけた来館者が毎日ぞくぞく訪れる。
やがてようやく日は沈み、図書館もやっと閉館になる。
……館のすみのゆりかごで、くすんくすんと泣き声がする。二人の赤ちゃんが目を覚まし、ぐずぐずむずかり出したのだ。
「はいはい、ちょっと待っててね……ほーら、ごはんですよぅ……」
若いままの姿の妻がそれは優しくお乳をあげて、はだけた胸に夫がちょっと目をそらす。
「あら、何も今さら照れなくとも……さんざ目にしているじゃない?」
「ちょっ、やめてよ! 娘の前ではしたない!」
真っ赤になってあわあわ手を振る夫の前で、またも赤ちゃんがむずかり出した。ママはいかにも慣れた手つきで、いつもの絵本を本棚からすっと引き抜く。
「はいはい、今度は『物語のおなか』がすいたのね……」
お気に入りの絵本には、青空のもと、溶けかけた雪だるまが描かれている。読みすぎてすり切れ、ぼろぼろになったその絵本に、赤ちゃんが小さな両手を伸ばしながらきゃっきゃとはしゃぐ。
思わず笑顔になったパパが、とろけるようにつぶやいた。
「……まずは、やさしい『おかゆ』からだね……」
この子もいつかは、愛しいひとに出逢うのだろうか。その時にはもう、一人前に恋愛小説なんか味わえるようになっているのか。
想像すると楽しくて、そのくせちょっと淋しくて。少しだけ鼻をすするあまりに気の早いパパに、ママがほの甘く苦笑する。
開いた窓から、初夏の夜風がすうすう涼しく、しみじみ月の綺麗な夜で……新調した白いレースのカーテンが、ひらひら優しく揺れていた。




