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「早くしないと、次の授業に遅れる! 走って走って!」
じりじりと照りつける夏の日差しの中、生徒たちのざわめきが廊下に広がっていた。
私は長く伸びた髪をシュシュでひとつにまとめると、そのまま急いで教室を飛び出した。
「ごめんなさい、今行くわ!」
大きく踏み出した足に合わせて、ピンクがかった茶髪がふわりと揺れる。
この世界では少し珍しい髪色のせいで、入学の時はずいぶん手間がかかってしまった。
幼い頃の写真を探して、地毛であることを証明して、ようやく許可をもらえたのだ。
向こうと比べて、幾分も生きやすいはずなのに、そういう真面目な規律だけは不満を抱かざるを得なかった。
「ほんと、相変わらずお淑やかなんだから。あんたって、昔からそんな感じなの?」
「そうかな? 別にそんなことはないと思うけど」
「ほら、それよ! 困ったように笑うとことか、お嬢様でしかないから!」
「やめてよ、私はただの一般人だから!」
ニコッと笑って、友人と軽口を叩き合いながら廊下を駆け抜けていく。
私は、どこにでもいるただの女子高生だ。
二年前に、異世界から帰って来たという要素を除けば……だけど。
異世界で暮らした二年間は、こっちの世界では行方不明扱いとなっていた。
ここまで長く行方不明だった未成年が見つかったことは奇跡だと言われ、オカルト好きたちからはタイムリープだなんだと言われているらしい。
異世界転移していたなんて、夢にも思わないのだろう。
人間という生き物は、驚くほど器用に作られているらしい。
この世界に戻ってきてから早くも三年。私はあっさりとこの世界に順応した。
家にシェフは居ないから自分で料理をする。
メイドは居ないから自分でアイロンをかけた制服を着て。
馬車がなければ、従者もいないから自分の足で学校に通う。
私は、一人でも上手くやれている。
あの世界では、ただの一人もできなかったのに、こっちの世界ではすぐに友人ができた。
ねえ、信じられる? マナーがなってないと言われた私が、この世界では品の良いお嬢さま扱いをされているの。
向こうで公爵夫人になるために叩き込まれた作法のおかげで、成績も良く、先生たちからの評価も上々だ。
公爵様がつけてくれた家庭教師には叱られてばかりだったのに。
あの世界で身につけたものが、今更こっちの世界で役に立つとは皮肉な話だった。
「それぞれ好きなものを描いてくださって構いません。食べ物でも景色でも、なんだって構いませんよ。まずは画具に慣れることが大切ですから」
美術教師の穏やかな声に、「はーい」と気の抜けた返事がいくつも重なった。
気怠い午後の日差しが差し込む美術室には、独特な油絵具の匂いが漂っている。
「……ハーデンベルギア?」
「え?」
背後から囁かれた声に、私は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、見慣れた顔の美術教師だった。
「ごめんなさいね、突然声をかけてしまって。その絵、ハーデンベルギアでしょう?」
「先生、この花をご存じなのですか?」
「昔、夫に結婚記念日に貰ってからとっても大好きな花なの。素敵な花よね」
ほんのり頬を赤く染めて柔らかく微笑んだ先生は、ふと首を傾げた。
「だけど、どうして紫色のハーデンベルギアを水色で塗っているの? 被写体にしている写真は、ちゃんと紫色なのに」
「あ……すみません、ダメでしたか?」
思わず筆を持つ手に力が入り、私は小さく肩を竦める。
「いいえ、美術に不正解なんてないわ。ただ、何か素敵な思い入れでもあるんじゃないかと思って聞いてみたの。この花は、そういう花だから」
私は視線を伏せたまま、乾きかけた絵具の表面をぼんやり見つめた。
――運命的な出会い。奇跡的な再会。
私にはまるで似合わないほど、華やかで幸福な意味を持つ花。
優しい声も、差し出された手も、もう届かない場所に置いてきてしまったというのに、私はなぜ、この花を選んだのか。
「残念ながら、私に先生のような素敵な思い出はありませんよ」
私は眉尻を下げて、にっこりと穏やかに微笑んだ。
「水色のハーデンベルギアも爽やかで美しいわ。完成を楽しみにしているわね」
「はい、頑張ります」
私は水色の油絵具が付いた筆をそっと置くと、改めてキャンバスを見つめた。
描かれているのは、見慣れた屋敷とハーデンベルギアの花。
本来なら紫色であるはずの花々は、どれも淡い水色で彩られていた。
この花は、私にとって特別なものだ。
あの世界で見た景色。
あの部屋の窓いっぱいに広がっていた、美しい花々。
そして、私のもう一つの名前。
『ソフィア・ハーデンベルギア。君はこれから、この名前を名乗りなさい。君のおばあさまが愛していた花の名前だ』
換気をしていても消えきらない油絵具の匂いが、不意に遠い記憶を呼び起こす。
数年前の、眩しいほど穏やかだった日々。
彼と過ごした、かけがえのない時間を。
『仮にも公爵家の跡継ぎが絵を描くとか、バカげてるだろ』
『そんなことないと思うけど?』
『そんなことあるんだよ。こんなこと、マヌケなお前にくらいしか言えないっての』
『ま、まぬけって……。レディーに意地悪言っちゃダメって公爵様に教わらなかったの? このバカ!』
『物を投げつけてくるレディーがどこに居るって言うんだ』
いつものように憎たらしいことを言うところは変わらなかったけど、あの日の彼は、普段よりずっと優しい眼差しで、私を見つめてたと思う。
公爵邸で一番日当たりの良い、あの暖かな部屋で。
私は緑色の椅子に腰掛け、彼は紫のカーテンで日差しを調整したあと、私の向かいへ乱暴に腰を下ろした。
『今でもお前との婚約は納得いかないし、父上の考えにも不満しかないけど……』
『それでも俺は、お前と出会えたことは、良かったと思ってるよ』
彼の視線がキャンバスからこちらへ向くたび、胸の奥が妙に落ち着かなくなったのを、今でもはっきり覚えている。
この世界には、彼のような淡い水色の瞳を持つ人なんて、一人もいない。
私が愛したあの瞳は。
「……私も、あなたに出会えて良かったって言えば良かったな……」
ぽつりと零れた声は、油絵具の匂いに溶けるように消えていった。
滲みかけた涙をシャツの袖で強く拭い、私は再び筆を握る。
大好きな人たちと過ごした、かけがえのない記憶を頼りに。
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