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「奥様が亡くなれてから、旦那様の初恋の女性とそっくりの女の子が現れるなんて不気味だわ……」
「孫ってどういうことなの? 公爵様はまだ三十代よね? まさか、とんでもない歳の差だったとか?」
「侍女長によると、公爵様と同じ歳の少女だったそうよ。まあ、異世界転移なんてことが現実に起こったのだから、時空のずれが生じたとしてもおかしな話ではないわ」
メイドたちは口元を歪にゆがめながら、好奇心旺盛に噂話を交わしている。
物陰に身を隠し、彼女たちの会話を盗み聞きしていた私は、誰かから向けられる嫌悪に胸が苦しくなって背を丸くした。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
一体私が何をしたというのか。
異世界にやって来てから、今日でちょうど半月。
目まぐるしいほど多くの出来事が一気に押し寄せ、息をつく暇もない毎日だった。
それでも、ルグィーン公爵様のおかげで私は何不自由のない生活を送れていた。
本来ならば、貴重な異世界人として王宮魔法塔で研究の材料として使われていたと言うのだから、公爵様には感謝してもしきれない。
それでも今の生活が快適かと訊かれればすぐに首を縦に振ることはできなかった。
食事の時間には常に誰かの視線が付き纏い、入浴時も人の手を借りなければならない。
どこへ出かけるわけでもないのに、着替えのたびに重たいドレスを纏わされ、宝石や髪飾りで飾り立てられていく。
息が詰まりそうなほど徹底された毎日。
しかし、最初は抵抗があったものの、いつしか生活のすべてを誰かの手に委ねることに慣れていた。
まるで人形のように扱われる生活。私の意志など何ひとつ関係なかった。
メイドに連れられるがまま足を進めると、私は執務室へと通された。
そこには大きな机と、壁一面を埋め尽くす本棚が広がっていた。
書類へ視線を落としたまま、忙しなくペンを走らせていたルグィーン公爵様は、私の姿に気づくと顔を上げた。
氷のように冷え切っていた水色の瞳が、私の姿を映した瞬間に緩やかに熱を帯びる。
それは使用人へ向ける冷たい眼差しでなければ、息子へ向ける愛情に満ちた眼差しでもなかった。
どこか悲しげで、それでいて慈愛に満ちた視線が、静かに私へと注がれる。
「ソフィア。何か困ったことはないかい?」
「あ、ありません」
優しい声色で問いかけられ、私はぎこちなく頷く。
今の私に困ったことなど何一つない。
使用人たちは心内がどうであれ、表向きには皆丁寧に接してくれていて、公爵様も私を大切に扱ってくださっている。ヴィクトルは意地悪で生意気だけど、彼と過ごす時間は、なかなかに楽しかった。
あるとすれば、元の世界に帰りたいという願いくらいだ。
けれど、その言葉を口にすることはどうしてもできなかった。
特に、ルグィーン公爵様にだけは。
私を通して小春おばあさまの面影を見ている彼に、「帰りたい」などと言えば、きっと悲しませてしまう。それどころか、私を見限ってしまうかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。
それでも、元の世界に帰る方法は必ず存在する。
なぜなら小春おばあさまは、実際に元の世界へ帰る事ができたのだから。それも自分の意思で。
そうなると鍵になるのはやはり、あの手鏡だろう。
この世界へ飛ばされたあの日、鏡も一緒に庭園のどこかへ飛ばされてしまったのだと思い、私は何度も足を運んでは必死に探し回った。
しかし、半月が経った今でもそれは見つかっていない。
この世界に共に来れなかったのか、それとも誰かが持ち出してしまったのか……そう、諦めかけていた時だった。
「お嬢様が仰っていた探し物とは、こちらのことでしょうか?」
差し出されたものを見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
……誰かが私を惑わせたのだろうか?
繊細な装飾が施された、小ぶりの手鏡。
間違いない。
小春おばあさまが何より大切にしていた、あの鏡だった。
「見つかってよかったです」と柔らかく微笑んだメイドが部屋を出て行ったのを確認すると、私はすぐさまベッドへ駆け寄った。
枕のシーツを乱暴に引き剥がし、その中へ鏡を包み込む。
まるで危険物でも扱うかのように、何重にも布を巻きつけ、そのままタンスの奥深くへ押し込んだ。
もし、意図せず鏡の力が発動してしまったら。元の世界へ帰されてしまったら……そう思うと、恐ろしくてたまらなくなった。
小春おばあさまが死んでしまった今、元の世界に私の家族はもう一人もいない。
私の味方は誰一人としていないのだ。
また、一人ぼっちになってしまう。
慣れないドレスも、息苦しい礼儀作法も、誰かに見張られながら暮らす日々も、何もかもが苦痛で仕方ない。
頭がおかしくなってしまいそうだと、そう思っていたはずなのに。
毎晩枕を涙で濡らしては、元の世界に帰ることを切望していたのに、いつまでもここに居たいと願うようになったのは、一体いつだったのか。
私にだけ驚くほど甘いルグィーン公爵様。
口が悪く意地悪なくせに、いつだって私を気にかけてくれる未来の夫だという青年。
気づけば、彼らとの生活は私にとってかけがえのないものへと変化していた。
バカみたいな考えかもしれないけれど、私にも家族ができたような気がして、嬉しかったのだ。
たとえ彼らの優しい眼差しが、ただ私を通して、小春おばあさまを想い出しているだけだとしても……。
現実とは到底思えないほど、眩く輝く世界だった。
一面に花々が咲き乱れる屋敷の庭園に、一人の青年が静かに佇んでいる。
艶やかな黒髪が風に揺れ、淡い水色の瞳がまっすぐに私を映していた。
空をそのまま閉じ込めたような、透き通る瞳の中には私だけが映し出されている。
「ソフィア」
限りなく甘い、優しい声だった。
違うわ。私の名前は、そんな洋風なお姫様みたいな名前じゃない。
「……ソフィア」
そこにいたのは、私の知っている彼ではなかった。
すらりと伸びた背丈に、広くなった肩幅。
幼さを残していた顔立ちは、時を経て、深く端正なものへと変わっている。
こんなふうに大人びた表情をする人だっただろうか。
彼は口を閉ざし、暖かな陽光に照らされた花を愛しそうに見つめた。
美しい水色のハーデンベルギアの花を。
「ハッ……!」
勢いよく目を見開き、私は弾かれるように上半身を起こした。
額から汗が流れ落ち、背中にはじっとりと冷たい汗が張りついている。
浅く乱れた呼吸を整えようとしても、胸の奥がざわついて上手く息ができない。
夢で見た、あの淡い水色の瞳が、未だに目の奥に焼き付いて離れなかった。
「あら、起きたのね。気分はどう?」
穏やかな声とともに、閉ざされていたカーテンが開かれる。
白衣を着た女性教師の姿を見た瞬間、私はようやく現実へ引き戻された。
昼過ぎから体調を崩し、保健室で眠っていたこと。
そして、自分が公爵家の婚約者などではなく、どこにでもいるただの女子高生だということを。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「そう。授業はもう終わっているから、このまま帰りなさい。親御さんに心配かけないよう、寄り道しちゃダメよ?」
親御……。先生、残念ながら私にはもう、帰りが遅くなったところで心配してくれる人はいないんです。
そう言葉にする代わりに、私はにっこりと笑って小さく頷いた。
鞄を手に取り、静かな保健室をあとにする。
夕焼けに染まり始めた廊下を歩きながら、私はそっと額を押さえた。
飽きもせず、毎日のように夢に現れる彼。
何故か今日は、大人の姿をしていた。
夢で見たように、素敵な紳士へ成長しているんだろうな。
昼間に描いた、水色のハーデンベルギアの絵が脳裏を過る。
自分の意思で決めたことなのに。
もう二年も経過したというのに、私はいつまで過去に囚われているのだろう。
「おばあさま、ただいま」
誰もいない、静かなマンションの一室。
玄関に飾られた写真へ声をかけ、私はそのまま小走りで自室へ向かった。
小春おばあさまが大切にしていた鏡台。
長い間、まったく触れてこなかった引き出しへ手を伸ばす。
引き出しを引いた瞬間、ふわりと埃が舞い上がり、その奥から一つの手鏡が姿を現した。
以前見たときと何ら変わりのない、美しい装飾が施されたおばあさまの宝物。
昔、何度も「もっと聞かせて」とせがんでは、小春おばあさまに異世界での話を聞かせてもらっていた。
公爵様のことがとても好きで、心の底から幸せな日々だったこと。
異世界から来た自分を受け入れない人々に傷つけられ、何度も涙を流したが、それでも差し伸べられた優しさが何より嬉しかったこと。
冷たく見えて不器用な公爵様が、自分だけには優しく笑ってくれたこと。温かな屋敷で過ごした日々が、かけがえのない宝物だったこと。
懐かしそうに目を細めながら語るおばあさまは、年老いていても、まるで恋する少女のように綺麗だった。
だけど、おばあさまには大切な家族がいた。
本来の世界で生きていかなければならなかった。
だから自分の意思でこの世界へ戻って来たのだと。
そして、もう二度と向こうの世界へ行くことはないと決めていたのに、世界と世界を繋いでいたこの手鏡だけは、どうしても処分することができなかったのだと、寂しそうに笑っていた。
この世界に帰ってきてから、私にも守りたいものが増えた。
学校があって、友達がいて、未来がある。
ソフィア・ハーデンベルギアに戻ることなんて、もう二度とないと、そう思っていたはずなのに。
私もまた、この鏡を手放すことなどできなかった。
あの時は運よくヴィクトルたちの居る世界に行けただけで、今度はまったく違う時代や、知らない世界へ飛ばされる可能性だってある。
それでも、私は……。
『私って、こんな顔してる?』
何日もかけて完成させた絵を、ヴィクトルはどこか照れくさそうな顔で私に見せてくれた。
描かれていたのは、ハーデンベルギアの花に囲まれて、楽しそうに笑う私の姿。
柔らかな陽だまりの中で微笑むその少女は、自分でも驚いてしまうほど幸せそうな顔をしていた。
『なんだよ。文句言うなら描かせなきゃよかっただろ』
『違うよ、文句なんてつけようがない』
『だったら何?』
『ただ……私って、こんなふうに笑ってるんだって、驚いただけ』
たった一人の家族であるおばあさまを失い、遠縁の親戚たちから押し付け合いをされる存在。
もう二度と、心の底から笑える日は訪れないと思っていた。
誰かと一緒に居ることが楽しくて、失いたくないと思える日々が、もう一度自分に来るなんて思っていなかったのだ。
ヴィクトルはいつも意地悪ばかり言っていたけれど、それでも彼の隣にいる時間が私は好きだった。
だから……。
私はそっと鏡を胸元へ抱きしめ、小さく目を伏せた。
大丈夫。今度は、私の意志であなたに会いに行くから。
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