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「うっ……ゴホッ!」



 これは、夢か誠か。


 一体、何が起きているというのだろう?

 


「誰か、誰かお医者を呼んでちょうだい!」


「しっかりしてください、アナスタシア様!」



 次々と耳に飛び込んでくる悲鳴と、地面に崩れ落ちているアナスタシアの姿。


 あまりに突然の出来事に、思考がまるで追いつかない。


 私は今日、ルグィーン公爵様とヴィクトルに付き添い、王室主催のピクニックに参加していていたはず。

 そして、不本意ながらも令嬢たちの輪に混ざり、ぶどうジュースを飲んでいたはず。

 

 それなのに、一体これはどういうことなの。


 珍しく私を居ない者として扱ってくれると思っていたら、まさかこんなサプライズを用意していたなんて。さすがだわ、アナスタシア。


 上手く頭は回らないが、今、私の目の前に広がる赤黒い液体を吐き出したのがアナスタシアだということだけは、はっきりと理解することができた。



「誰がこんなひどいことを……!」



 いつも彼女と一緒になって私に嫌味を言ってくる令嬢の一人が、震える声で叫んだ。

 その一言をきっかけに、周囲の視線が一斉に私へと向けられる。

 分かっている。言葉にされなくても、その目がすべてを物語っているから。


 その時、脳裏に浮かんだのは、大好きだった小春おばあさまの最期の姿だった。

 優しくて穏やかで、私にとってたった一人の家族。

 まだ命を落とすような歳でもなければ、健康診断だって問題はなかったはずなのに。


『ゲホッ、うっ……ゴボッ!』


 突然苦しそうに咳き込んで、皺が刻まれた手で口元を押さえたおばあさまの姿と、目の前で苦しそうに顔を歪ませるアナスタシアの姿が私の中で重なった。


 どれだけ元気そうにしていても、命というものは簡単に簡単に消え去ってしまう。


 あの世界でも、この世界でも、それは同じこと。



「アナスタシア!」



 気づけば私は駆け出していた。


 あんたみたいな酷い人間でも、絶対に死んではダメ!


 反射的に彼女の肩を掴み、必死に叫ぶ。



「しっかりしなさいよ、アナスタシア!」



 私の呼びかけに反応したかのように、憎悪に染まった金色の瞳が私を映し出した。


 

「全部あんたのせいよ……あんたさえ居なければ、全てうまく……」



 意識が朦朧とする中、彼女は私を見つめてそう言った。


 真っ青になった唇から紡がれた憎しみの言葉に、私は唖然とすることしかできないのだった。




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「今回の件は全て私が解決しておく、君は何も心配することはない」


「申し訳ございません、公爵様……」



 自室のベッドに腰掛けたまま謝罪の言葉を絞り出すと、堪えていたはずの涙が、気づかぬうちに頬を伝っていた。

 それを見た公爵様は、ほんのわずかに表情を緩め、「今日はもう休みなさい」とだけ告げて静かに部屋を出ていく。


 扉が閉まる音がやけに重く響き、残された部屋の空気がひどく冷たく感じられた。


 彼の優しさが、涙が出るほど苦しい。


 王族までが参加する公式行事で毒が盛られたという、世紀の大事件から早くも三日が経過した。

 あの場にいた誰もが、あの一件の犯人は私だと思っている。

 私が牢屋へ放り込まれずに、こうして温かい部屋にいることができるのも、全てはルグィーン公爵様のおかげだった。


 私に彼女へ毒を盛る動機はないし、この世界で身寄りのない私に毒を手に入れる術もない。


 私はすべてをルグィーン公爵様に委ねるしかなかった。

 無力だと分かっていても、他にどうすることもできない。

 

 この世界に私を恨む人間なら、いくらでもいる。

 もし誰かが、私を犯人に仕立て上げるためにアナスタシアに毒を盛ったのだとしたら。


 考えたくはないけれど、その可能性が一番現実的だった。

 そうだとするなら。次に狙われるのは私自身かもしれない。


 それとも、ルグィーン公爵様か。あるいは、ヴィクトルにまで……。



「おい」



 不意にかけられた声に、私はゆっくりと顔を上げた。


 私の自室に、ノックも挨拶もなしに入ってくる人物はたった一人しかいない。



「ヴィクトル、何しに来たの?」



 彼は片手をポケットに突っ込んだまま、わずかに眉を寄せて私を見下ろしていた。



「父上からお前がガキみたいに泣きじゃくってるって聞いたから慰めに来てやったんじゃないか」


「嘘言わないで、公爵様がそんなこと言うはずないでしょ? それに私は泣いたりしないから」


「ハイハイ」



 ヴィクトルはそう言うと、ポケットからシルクのハンカチを取り出し、私の目元に浮かんでいた涙を拭った。


 乱暴な言い方なくせに、優しいところは昔から変わらないのね。


 この世界に来てから三年。短いようで長い時間を、私はずっと彼の傍で過ごしてきた。


 ヴィクトルが巷で流行していた伝染病にかかった時、私は高熱でうなされる彼の傍にずっといた。

 普段は大人びたことばっかり言うくせに、死んだ母親が恋しいと言葉をもらす彼の手を握り続けたことが、つい昨日のことのように感じる。


 高熱にうなされ、朦朧としたアイスブルーの瞳を見るたび、自分が代わってやりたいと、どれだけ思ったことか。


 慰めに来たと言ったくせに、彼は部屋の窓際に置かれたソファへと寝転がると、そのまま本を読み始めた。


 窓からは、咲き誇ったハーデンベルギアの花を一望することができた。


 ハーデンベルギアが一番美しく見えるこの部屋は、数十年前、小春おばあさまが使っていた部屋だという。


 娘が欲しかったルグィーン公爵様の母親、前公爵夫人に気に入られ、異世界で何不自由なく暮らし、そしてルグィーン公爵様と恋に落ちた。


 初めてその話をおばあさまから聞いた時は、そんなに幸せだったのなら、どうして元の世界に帰って来たのか不思議で仕方なかった。


 だけど、今なら分かるような気がする。


 いくらルグィーン公爵様が良くしてくださるからと言って、これ以上迷惑はかけられない。

 それに、彼が見ているのは私ではなく、私の姿を通して記憶の中に居るおばあさまに浸っているだけなのだから。


 私はそれが、何だか少しだけ寂しかった。



「ねえ、ヴィクトル」



 本から視線を外さないまま返事をする彼の横顔を見つめながら、私はゆっくりと口を開いた。



「あなたも、私が元居た世界に帰ればいいって思う?」


「……は?」



 手を滑らせたヴィクトルの顔に、本がばさりと落ちる。

 少し赤くなった鼻を押さえながら、驚いたように目を見開いてこちらを見た。



「急になんだよ?」


「だってそうでしょ? 皆、私が居ない方がいいって思ってるわ」


「……誰かにそう言われたのか」


「直接言われなくたって分かるわよ」



 ああ、何が虚しくって自分でこんなこと言わなくちゃならないの?


 ヴィクトルは珍しく真剣そうな顔をしたかと思えば、深くため息をついて、またソファへと横になってしまった。


 落とした本を拾い直し、今度は日差しを遮るように顔の上へと乗せる。



「ああ、そうだな。お前が居なければ、我が家がこんなに騒がしくなることはないし、父上がくだらない初恋の想い出なんかに苦しめられることもない」



 私はヴィクトルの言葉に耳を傾けながら、ベッドの横に置かれた小さなタンスの取っ手に手をかけた。



「だが、お前が誰かに虐げられているなら……ソフィア?」



 取り出した手鏡の持ち手を、両手でしっかりと握りしめる。


 恐る恐る鏡を傾けると、そこに映ったのは、見慣れたはずの自分の姿だった。


 この鏡を手に取るのは、いつ以来だろう?


 この世界に来た直後、庭園のどこかに消えてしまったそれを見つけたのは、ほんの半年前のこと。


 それから私は、今日の今日まで決断することができなかった。


 だけど、ようやく決心できた。覚悟を決めれたのよ。


 ありがとう、ヴィクトル。

 あなたがよく言っていた、夫婦は一心同体だって話もバカに出来ないかもしれないわね。


 まあ、私たちは永遠に会うことはなくなるのだけど。



「本当は、もっと早くに帰らなくちゃダメだって分かっていたの。だけど……あなたと過ごした日々があまりにも楽しかったから」


「お前、何を言って……」


「初めてだったの。小春おばあさま以外の人で、私に優しくしてくれた人は。私、本当に嬉しかったのよ、ヴィクトル」



 視界が滲み、頬を伝って涙がこぼれ落ちた。


 ああ、これはさすがに言い逃れできないわね。


 あなたと居ると、私はいつも泣いてばかり。


 私が泣く度にあなたはバカにしてからかってきたけど……仕方ないでしょ、いつも涙を拭ってくれるあなたがずっと傍に居たんだから。



「バイバイ、元気でね」



 私がこの世界から消えることを知れば、少しは悲しむ顔をしてくれるんじゃないかって思っていたけど……そんな期待も虚しく、眩い光に照らされてヴィクトルの顔は全く見えなかった。



 そして、私の身体は本来いるべき世界へと飛ばされたのだった。




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