表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
REMNANT ― 廃棄予定の旧式兵器は、異世界で家族を得て心を覚える ―  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/35

第二十一話 小さな頼まれごと



 朝、村に雨が降った。


 激しい雨ではない。


 屋根を叩く音も弱く、土を流すほどでもない。けれど、細かな雨粒は村の道を黒く濡らし、畑の土を柔らかくした。


 納屋の中には、湿った木の匂いが満ちていた。


 昨日までよりも空気が重い。


 壁に立てかけられた農具の鉄部分には、薄く水気がついている。縄は湿気を吸い、いつもより少しだけ重そうに垂れていた。


 ノアは棚の上の花を見ていた。


 リリにもらった花。


 昨夜、エルナが水を入れた小さな器に挿したもの。


 花弁は少しだけ開き、昨日よりも持ち直している。


【対象:植物】

【状態:維持】

【処理:水分吸収確認】


 水を与えることで、状態が保たれる。


 それは単純な結果だった。


 だが、ノアの内部では、その単純な結果が何度も呼び出されていた。


 壊さずに残るものがある。


 手を加えることで、続くものがある。


 ただ強いだけでは守れないものがある。


【語彙:守る】

【再定義:継続中】


 ノアは花に触れようとして、また止めた。


 触れれば観測できる情報は増える。


 茎の硬度。花弁の厚み。水分量。構造変化。


 だが、触れれば壊れる可能性も増える。


【接触:非推奨】

【理由:損傷可能性】


 だから見るだけにする。


 見るだけでも、記録はできる。


 その時、扉の外で足音がした。


 軽い足音ではない。


 重い。


 だが、ガルドとは違う。


 歩幅が小さく、片足を少し引きずるような音が混じっている。


【対象:未登録】

【接近:低速】


 納屋の扉が控えめに叩かれた。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 リリのように勢いよく開けるわけではない。


 エルナのように自然に入ってくるわけでもない。


 ガルドのように無言で開けるわけでもない。


 相手は、こちらの反応を待っていた。


「……ノアはいるかね」


 老いた声だった。


 ノアは立ち上がる。


「……いる」


 扉の向こうで、少し沈黙があった。


 それから、ゆっくり扉が開く。


 立っていたのは、村長だった。


 白髪混じりの髪を後ろで束ね、厚手の外套を羽織っている。雨に濡れないようにしてきたのだろうが、肩には細かな水滴がついていた。


 村長は納屋の中を見渡し、最後にノアを見る。


「朝早くにすまんな」


「……すまん」


 ノアが繰り返すと、村長はほんの少しだけ眉を上げた。


「謝らせるつもりはない。今のは、こちらが言う言葉だ」


【語彙:すまん】

【使用条件:自分に非/相手への配慮】

【理解:不完全】


 ノアは沈黙する。


 村長はすぐに話を続けた。


「ガルドはいるか」


「……外」


「そうか。なら、先にお前へ話しておこう」


 村長は一歩だけ納屋の中へ入った。


 まだ距離を取っている。


 警戒している。


 だが、逃げる姿勢ではない。


 昨日とはまた少し違う。


【外部反応:警戒/目的あり】


「村の北側に、小さな橋がある」


「……橋」


「川を渡るためのものだ。昨夜からの雨で、土台が少し流されたらしい」


【対象:橋】

【状態:損傷推定】

【用途:通行】


「人手が要る。力も要る。だが、力任せにやると余計に崩れる」


 村長はノアを見た。


「お前の力を借りたい」


【要求:協力】

【対象:ノア】


 ノアの内部で処理が走る。


 力を使う。


 橋を直す。


 村の通行を維持する。


 守る。


 関連が生まれる。


【語彙:借りる】

【意味:協力要求】

【関連:役割】


「……行く」


 ノアが答えると、村長はすぐには頷かなかった。


 目を細め、ノアを観察する。


「ひとつ確認する」


「……確認」


「言われた通りに動けるか。自分だけで判断して力を入れすぎるな」


 ガルドの言葉と重なる。


 全部に全力を出すな。


 守るなら、壊しすぎるな。


「……加減、する」


 村長の表情が、ほんのわずかに緩んだ。


「なら、来てくれ」


 その声に、納屋の外から別の声が重なった。


「村長?」


 エルナだった。


 雨除けの布を肩にかけ、家から出てくる。


 その後ろから、リリも顔をのぞかせる。


「ノア、どこか行くの?」


 村長がエルナに説明する。


「北の橋だ。崩れかけている。ノアに手を借りたい」


 リリの目が明るくなる。


「ノア、村のお手伝い?」


「手伝いになるかどうかは、これからだ」


 村長は静かに言った。


 リリはそれでも嬉しそうだった。


「ノア、すごいね」


「……すごい?」


「だって、頼まれてるんだよ」


【語彙:頼まれる】

【意味:未定義】


 頼まれる。


 命令とは違うのか。


 ノアは処理する。


 研究所では、行動は命令によって発生した。


 拒否は想定されていない。


 命令は上から来る。


 実行する。


 結果を出す。


 失敗すれば廃棄。


 だが、村長の言葉は命令ではない。


 力を借りたい。


 手を借りたい。


 そこには、断る可能性も含まれているように見える。


【命令:強制】

【頼む:協力要求】

【差異:重要】


 エルナがノアを見た。


「無理はしなくていいのよ」


「……無理」


「ええ。できることを、できるだけでいいの」


 村長も頷く。


「そうだ。橋を守るために、お前を壊すつもりはない」


【対象:ノア】

【損傷回避:他者要求】


 ノアは一瞬、処理を止めた。


 自分の損傷を避けるように言われた。


 機能維持のためではない。


 道具として壊さないためでもない。


 おそらく、別の意味。


【未知信号:微増】


 リリが近づく。


 だが、途中で止まる。


 近づきすぎるな、と言われている。


 それを守っている。


「ノア、いってらっしゃい」


 昨日より自然に、その言葉が出た。


【語彙:いってらっしゃい】

【関連:帰る】


 ノアは答える。


「……いってきます」


 リリが笑う。


「うん!」


 エルナも微笑む。


「気をつけてね」


 ノアは村長の後ろについて歩き出した。


 雨はまだ弱く降っている。


 細い雨粒が外殻に当たり、流れていく。


 道はぬかるんでいた。


 人の足なら滑る。


 ノアの足なら沈む。


 踏みしめる力を加減しなければ、地面を壊す。


【歩行:加減適用】

【地面損傷:抑制】


 村長はゆっくり歩く。


 ノアはその速度に合わせる。


 追い越さない。


 急がない。


 合わせる。


【行動:同調】

【理由:相手速度】


 途中、数人の村人とすれ違った。


 視線が向けられる。


 以前より逃げる者は少ない。


 だが、完全に平気でもない。


 雨の中、戸口からこちらを見る女。


 道の端に寄る老人。


 母親の後ろに隠れる子ども。


 その子どもは、隠れながらもノアを見ていた。


【外部反応:警戒/関心】


 ノアは歩く。


 村長は何も言わない。


 しかし、村長の歩く位置は少し不思議だった。


 ノアより半歩前。


 だが、完全に前へ出すぎない。


 村人たちから見ると、村長がノアを連れている形になる。


 それはガルドの背中とは違う。


 守るための位置ではない。


 認めるための位置。


 あるいは、責任を示す位置。


【配置:村長前方】

【推定:保証】


 保証。


 また新しい概念。


 誰かが誰かのために、周囲へ示すもの。


 ガルドの「俺が持つ」と近い。


【関連:責任】


 北の橋は、村の外れにあった。


 小さな川に架かる木橋。


 普段なら人が二人並んで渡れる程度の幅しかない。だが、畑へ向かうには必要な橋だった。


 雨で水量が増し、川は濁っていた。


 橋の片側の土台がえぐられ、支えの杭が斜めになっている。


 数人の村人が集まっていた。


 ガルドもいた。


 斧ではなく、太い杭と縄を持っている。


 ノアを見て、短く言った。


「来たか」


「……来た」


「足場が悪い。勝手に踏み込むな」


「……踏み込まない」


 ガルドは村長を見る。


「力は要る。だが一気に上げると橋が割れる」


「分かっている」


 村長は頷き、ノアに向き直る。


「今から、この杭を支え直す。お前には橋を少し持ち上げてもらう。ただし、少しだ」


「……少し」


「そうだ。大きく持ち上げるな。橋が壊れる」


【対象:橋】

【必要動作:持ち上げ】

【出力:低】

【失敗時:破壊】


 低出力。


 精密制御。


 ノアは橋へ近づく。


 木材の湿度が高い。


 構造の一部が弱っている。


 全力で持ち上げれば、確かに破損する。


【力加減:重要】


 ガルドが横に立つ。


「俺が言うまで上げるな」


「……待つ」


 村人の一人が不安そうに言った。


「本当に大丈夫かよ」


 ガルドはそちらを見ない。


「大丈夫にする」


 短い言葉。


 ノアは橋の下部に手をかける。


 濡れた木。


 冷たい。


 滑る。


【接触:橋梁】

【握力:最小調整】


「上げろ」


 ガルドの声。


 ノアは力を入れる。


 ほんの少し。


 橋が軋む。


「止めろ」


 止める。


 保持。


【出力:維持】

【構造負荷:許容内】


 村人たちが急いで杭を差し直す。


 泥に足を取られながら、縄を回す。


 ガルドが位置を見て指示を出す。


「右、少し下げろ」


「……右、下げる」


「違う、お前じゃない」


 村人の一人が思わず笑った。


 小さな笑い。


 すぐに消えたが、そこに敵意はなかった。


 ノアは記録する。


【反応:笑い】

【敵意:なし】


 ガルドが続ける。


「ノア、今のままだ」


「……維持」


 維持。


 強い力より難しい。


 微細な揺れを抑え、木材を割らず、水流による振動を吸収する。


 戦闘時の瞬間出力とは違う負荷。


 静かな力。


【出力制御:継続】

【未知信号:集中】


 やがて、杭が固定された。


 縄が締められる。


 村長が橋の上に足を乗せ、慎重に体重をかける。


 軋むが、崩れない。


「よし」


 短い声。


 村人たちが息を吐く。


 ガルドがノアを見る。


「下ろせ。ゆっくりだ」


「……ゆっくり」


 ノアは橋を下ろす。


 急に離さない。


 少しずつ。


 木材が支えに乗り、振動が収まる。


【作業:完了】


 雨の音が戻ってきた。


 それまで誰も意識していなかった音が、急に耳に届く。


 村人の一人が言った。


「……助かった」


 別の男も頷く。


「これが落ちたら、畑に行けなくなるところだった」


 ノアはその言葉を聞く。


 橋。


 畑。


 村人の生活。


 行き来。


 続く日々。


 守った対象は、橋だけではない。


【防衛対象:通行/畑/生活】

【守る:再定義】


 村長がノアの前に立った。


「よくやった」


【評価:肯定】


 ノアは答える。


「……どういたしまして」


 村長が一瞬、目を丸くした。


 それから小さく笑った。


「そう返すのか」


「……リリ、教えた」


「なるほど。よい先生だ」


【リリ:先生】

【意味:教える者】


 ノアは記録する。


 リリは先生。


 エルナも先生。


 ガルドも先生。


 村長も、今、何かを教えている。


【学習対象:増加】


 そこへ、一人の少年が近づいてきた。


 橋の向こう側から走ってきた子だった。


 泥だらけの足で、息を切らしている。


「村長、渡っていい?」


「ゆっくりだ」


 少年は橋を渡る。


 途中でノアを見る。


 以前、ノアに触れようとした子どもの一人だった。


 少年は少し迷ってから、小さく言った。


「……ありがと」


【語彙:ありがとう】

【外部使用:確認】


 ノアは少年を見る。


 少年はすぐに目を逸らした。


 照れているのか、怖いのか、分類が難しい。


「……どういたしまして」


 少年は少しだけ笑って、走っていった。


【外部反応:笑い】

【敵意:なし】


 村長がそれを見て、静かに言う。


「ひとつずつだ」


「……ひとつずつ」


「人は急には変わらん」


【語彙:変わる】

【関連:時間】


「だが、変わらんわけでもない」


 村長は橋を見る。


「橋も同じだ。壊れかけたら、支え直す。放っておけば落ちる。無理に持ち上げれば割れる」


 ノアはその言葉を記録する。


 人も橋も、同じ。


 支え直す。


 放置すると壊れる。


 力を入れすぎると割れる。


【比喩処理:開始】

【関係:橋/人/信頼】


 信頼。


 昨日、未定義だった語。


 少しだけ輪郭が出る。


 支えるもの。


 壊れやすいもの。


 すぐには完成しないもの。


【信頼:仮定義/少しずつ支えるもの】


 作業が終わり、村人たちは戻り始めた。


 雨は小降りになっている。


 ガルドは道具をまとめながら、ノアに言った。


「今日はよくやった」


 同じ言葉。


 だが、前とは響きが違う。


 戦闘で勝ったことへの評価ではない。


 壊さずに済ませたことへの評価。


 ノアは答える。


「……壊しすぎない」


「ああ」


「……守る」


「そうだ」


 ガルドは短く答えた。


「それも、守るだ」


 そのも。


 守るには複数の形がある。


 敵を止める。


 橋を支える。


 花を潰さない。


 椀を割らない。


 リリを怖がらせない。


 村を壊さない。


【守る:多義化】


 ノアの内部で、語彙が広がっていく。


 帰り道。


 泥道を歩いていると、村の女が道の端から声をかけた。


「橋、直ったのかい」


 村長が答える。


「しばらくは持つ」


 女はノアを見る。


 まだ少し警戒している。


 だが、目を逸らさない。


「……そうかい」


 それだけ言って、家へ戻ろうとする。


 途中で止まり、小さく付け足した。


「助かったよ」


 ノアは答える。


「……どういたしまして」


 女は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに家へ入った。


【感謝応答:成功】


 村長が小さく笑う。


「便利な言葉を覚えたな」


「……便利」


「いや」


 村長は首を振る。


「便利、だけではないな」


 それ以上は言わなかった。


 ノアはその未完の言葉を記録した。


【語彙:便利】

【否定:それだけではない】


 家に戻ると、リリが玄関前で待っていた。


 傘のような大きな葉を持っている。


 ほとんど役に立っていない。


 肩が少し濡れている。


「ノア!」


 駆け寄ろうとして、泥で滑りかける。


 ノアは一歩動き、腕を出した。


 リリが転ぶ前に止まる。


【接触:保護】

【出力:最小】


 強く掴まない。


 引っ張りすぎない。


 ただ支える。


 リリは目をぱちぱちさせた。


「……あ、ありがと」


「……どういたしまして」


 リリは一瞬きょとんとして、それから笑った。


「言えた!」


 エルナが家の中から顔を出す。


「おかえりなさい。橋はどうだったのかしら」


 ガルドが答える。


「直した」


 村長が言う。


「ノアがよく支えた」


 エルナの表情が柔らかくなる。


「そう。頑張ったのね」


「……頑張った」


 ノアが繰り返すと、リリが嬉しそうに言う。


「そういう時はね、疲れた?って聞くんだよ」


「……疲れた?」


 ノアが自分で言ってから処理が止まる。


 自分に問いかけた形になっている。


 リリが笑う。


「ちがうちがう。リリがノアに聞くの」


 リリは改めて、ノアを見る。


「ノア、疲れた?」


【語彙:疲れた】

【意味:未定義】


 機能消耗は軽微。


 出力低下なし。


 損傷なし。


 だが、作業中の制御負荷は高かった。


「……疲れた、未定義」


 リリは少し考える。


「うーん。じゃあ、休む?」


【語彙:休む】

【関連:負荷軽減】


 休む。


 待機。


 停止。


 だが、リリの言う休むはそれとは少し違う。


 エルナが布を差し出す。


「中にはまだ入れないけれど、軒下なら雨もかからないわ。そこで少し休むといいかしら」


 軒下。


 家の入口に近い場所。


 昨日の食事位置より、さらに少し内側。


【位置:更新】


 ノアは軒下へ移動する。


 雨が当たらない。


 リリが隣に座る。


 エルナが温かい飲み物を置く。


 ガルドは少し離れて道具の泥を落としている。


 村長は帰ろうとして、ふと立ち止まった。


「ノア」


「……ノア」


「橋を支えてくれて、ありがとう」


 はっきりした言葉。


 ノアは村長を見る。


「……どういたしまして」


 村長は頷いた。


「また頼むことがあるかもしれん」


【語彙:頼む】

【関連:協力】


「……頼む、可能」


 村長は少し笑った。


「なら、また来る」


 村長は雨の中をゆっくり歩いていった。


 その背中を、ノアは見ていた。


 朝よりも、村長の足音は少し軽く聞こえた。


 それが本当に軽くなったのか、ノアの受け取り方が変わったのかは分からない。


【判断:保留】


 リリが隣で言う。


「ノア、村のお手伝いしたね」


「……手伝い」


「うん。すごい」


 ノアは軒下から村を見る。


 雨に濡れた道。


 立ち並ぶ家。


 煙突の煙。


 橋のある北側。


 畑へ続く道。


 昨日まで、村はただの環境だった。


 人がいる場所。


 警戒と観察の対象。


 だが今は、少し違う。


 橋が壊れれば、畑へ行けない。


 畑へ行けなければ、食物が減る。


 食物が減れば、リリも、エルナも、ガルドも、村人も困る。


 すべてが繋がっている。


【村:関係の集合】

【守る対象:拡張】


 ノアは自分の手を見る。


 橋を支えた手。


 リリを転ばせなかった手。


 花を潰さずに持つ手。


 敵を叩き伏せた手。


 同じ手。


 だが、使い方で結果が変わる。


【手部機能:再評価継続】


 ガルドが泥を落とし終え、こちらへ来る。


「ノア」


「……ノア」


「明日から少し仕事を教える」


「……仕事」


「薪運びだけじゃない。畑、柵、見回り。できることからだ」


 できることから。


 少しずつ。


 日々。


 村長の言葉と重なる。


【日々:実行単位】


 ノアは答える。


「……覚える」


「そうしろ」


 ガルドはそう言って、家の中へ戻ろうとする。


 だが、扉の前で一度だけ止まった。


「今日は、よくやった」


 それだけ言って、中へ入る。


 扉は完全には閉まらなかった。


 少しだけ開いている。


 そこから家の中の光が軒下へ漏れていた。


【境界:一部開放】


 リリが小さく言う。


「おとうさん、褒めたね」


「……褒めた」


「うん。すごいことだよ」


「……すごい」


 ノアは扉を見る。


 開いている隙間。


 そこから聞こえるエルナの声。


 ガルドの短い返事。


 食器の音。


 それはまだ完全に中ではない。


 だが、完全に外でもない。


 軒下。


 境界の場所。


 ノアはそこに座っている。


 雨は降っている。


 けれど濡れない。


【位置:境界】

【状態:保護下】


 その状態が、内部に静かに残る。


 夜。


 雨は止んだ。


 納屋へ戻ったノアは、棚の花を見た。


 水は少し減っている。


 花はまだある。


 壊れずに、続いている。


 ノアは今日の記録を再生する。


 橋。


 村長。


 頼む。


 支える。


 壊しすぎない。


 ありがとう。


 どういたしまして。


 手伝い。


 仕事。


 よくやった。


 それらは、戦闘ではない。


 だが、ノアの中では戦闘記録と同じか、それ以上の優先度で保存されていた。


【未知信号:安定】

【名称候補:役割】


 役割。


 命令ではない。


 所有者から与えられる任務でもない。


 そこにいて、何かを担うこと。


 誰かに頼まれ、応じること。


 終わったあと、ありがとうと言われること。


 そして、また頼まれるかもしれないこと。


 それが、役割。


【役割:仮定義】


 ノアは花へ水を足した。


 少しだけ。


 入れすぎない。


 ガルドの言葉を思い出す。


 全部に全力を出すな。


 守るなら、壊しすぎるな。


 水も同じ。


 多すぎれば、茎が腐る可能性がある。


 少なすぎれば、萎れる。


【加減:水量に適用】


 花は静かに器の中で揺れた。


 ノアはそれを見て、静かに言った。


「……続く」


 その言葉は、誰かに教えられたものではない。


 ただ、今日の結果から出てきた音だった。


【自発語彙:続く】

【未知信号:温】


 外では、雨上がりの風が木々を揺らしている。


 村の北側では、修理された橋が暗闇の中にある。


 明日、誰かがそこを渡る。


 畑へ行く。


 戻ってくる。


 食事を作る。


 誰かが「ただいま」と言う。


 それは橋を支えたから続く。


 花に水を足したから続く。


 力を弱く使ったから続く。


 壊さなかったから続く。


【守る:継続を支えること】


 仮定義が更新される。


 ノアは納屋の中で、壁際に腰を下ろした。


 昨日と同じ姿勢。


 だが、昨日と同じではない。


 今日は、村の橋を支えた。


 誰かに頼まれた。


 誰かに礼を言われた。


 そして、また頼むと言われた。


 ノアは胸部の機導炉を静かに明滅させた。


「……ノア」


 自分の名前。


「……役割」


 新しい言葉。


「……続く」


 その三つが、内部で並ぶ。


【存在:更新】


 まだ人ではない。


 まだ村人でもない。


 まだ家族と呼ばれるには遠いのかもしれない。


 それでも、ノアはもう単なる兵器ではなかった。


 村のどこかに、ノアが支えた橋がある。


 棚の上には、ノアが水を足した花がある。


 家の軒下には、ノアが座った場所がある。


 それらは小さい。


 だが、残っている。


 人がしたことは、どこかに残る。


 ガルドの言葉が再生される。


 ならば今日、ノアがしたことも残る。


 橋に。


 花に。


 リリの笑顔に。


 村長の声に。


 ガルドの「よくやった」に。


 残る。


【未知信号:安定】

【名称未確定】


 その信号に、ノアはまだ完全な名前をつけられない。


 けれど、前よりも少しだけ分かる。


 それは壊すための力ではない。


 残すための力。


 続けるための力。


 誰かが明日も歩けるように、今日、支える力。


 ノアは静かな納屋の中で、目を閉じるように光学素子の出力を落とした。


 眠るわけではない。


 ただ、静かに記録を沈める。


 花は棚の上で、ほんの少しだけ揺れていた。


 水の中で。


 壊れずに。


 続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ