表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
REMNANT ― 廃棄予定の旧式兵器は、異世界で家族を得て心を覚える ―  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/35

第二十二話 火床の音



 橋を支えた翌日、村の空は晴れていた。


 雨上がりの空気は澄んでいて、土の匂いが強い。畑の葉にはまだ水滴が残り、朝日に照らされて小さな光を返している。


 ノアは納屋の前に立っていた。


 昨日修理した北の橋の方向から、時折、人の足音が聞こえる。


 誰かが渡っている。


 畑へ行く者。

 水を汲みに行く者。

 荷を運ぶ者。


 橋は、まだそこにある。


【対象:北橋】

【状態:遠隔観測不可】

【推定:機能継続】


 直接見ていなくても、使われていることは音で分かる。


 木が踏まれる音。

 人が渡る足音。

 荷車の軋む音。


 それは戦闘音ではない。


 だが、昨日のノアの行動と繋がっている音だった。


【行動結果:継続中】

【未知信号:安定】


 人がしたことは、どこかに残る。


 ガルドの言葉が、また内部で再生される。


 ノアが支えた橋は、今も誰かを通している。


 その事実は、不思議な重さを持っていた。


 破壊した敵の数よりも、撃退した相手の記録よりも、その音の方が深く残る。


 まだ理由は定義できない。


 けれど、消えない。


 納屋の中には、リリにもらった花がある。


 昨日、ノアが水を足した花だ。


 花はまだ完全には萎れていない。


 今朝、リリが見て言った。


「まだ元気だね」


 元気。


 植物にも使われる語彙らしい。


 人にも使われる。


 リリにも、エルナにも、ガルドにも。


【語彙:元気】

【意味:状態良好/活動可能】

【感情要素:推定あり】


 ノアにはまだ、それを完全には理解できない。


 ただ、花がそこにあることを、ノアは確認するたび記録していた。


 その時、家の方からガルドが出てきた。


 手には古い金具と、折れた鎌の刃がある。


「ノア」


「……ノア」


「今日は鍛冶場に行く」


【語彙:鍛冶場】

【意味:未定義】


 ノアはガルドを見る。


「……鍛冶場」


「道具を直す場所だ」


 ガルドは折れた鎌を持ち上げた。


「橋の修理でいくつか金具が歪んだ。ついでに鎌も見てもらう」


「……見てもらう」


「お前も来い」


【指示:同行】


 ノアは頷く。


「……行く」


 家の戸口からリリが顔を出した。


「鍛冶屋さん行くの?」


「そうだ」


「リリも!」


「学校代わりの読み書きがあるだろう」


「えー」


 リリの声に、エルナが奥からやわらかく続ける。


「今日はおばあさんのところへ行く日でしょう?」


「うー……」


 リリは不満そうに頬を膨らませたが、すぐにノアを見た。


「ノア、鍛冶場はね、カンカンってするところだよ」


「……カンカン」


「すっごく熱いから、さわっちゃだめだよ」


【語彙:熱い】

【警告:接触非推奨】


 ノアは記録する。


「……さわらない」


 ガルドが横から言う。


「見て覚えろ。勝手に動くな」


「……見る。覚える。勝手に動かない」


「それでいい」


 ガルドは歩き出した。


 ノアはその後ろを追う。


 村の中を歩く許可は、まだ限定的だった。


 ガルド、村長、あるいは村の大人の同行が必要。


 ノア一人での移動は不可。


 その制限は昨日と変わらない。


 だが、今日は昨日よりも村人の反応が少し違っていた。


 戸口から見る者はいる。


 道を譲る者もいる。


 しかし、昨日のように露骨に子どもを引き寄せる者は少なかった。


 代わりに、小さな会釈が一つあった。


 橋を渡った老人だった。


 ノアは反応に迷う。


 リリがよくしている動作。


 頭を少し下げる。


【行動候補:会釈】


 ノアはわずかに頭を下げた。


 老人は驚いた顔をしたあと、少しだけ笑った。


【外部反応:驚き/笑い】

【敵意:なし】


 ガルドが横目で見た。


「誰に教わった」


「……観察」


「そうか」


 それだけだった。


 だが、否定ではなかった。


 鍛冶場は、村の南側にあった。


 大きな建物ではない。


 家屋に作業場が繋がっただけの質素な場所だ。だが、近づく前から音が聞こえてくる。


 金属を叩く音。


 一定ではない。


 強く、弱く、間を置き、また強く。


 雨上がりの村の中で、その音だけが火を持っているようだった。


【音源:金属加工】

【温度反応:高】


 入口には、煤で黒くなった木柱がある。


 中には炉。


 赤く光る炭。


 吊るされた金具。


 壁には鎌、鍬、包丁、釘、蝶番、馬具の一部まで並んでいた。


 作業台の前にいたのは、大柄な男ではなかった。


 背は低め。


 しかし腕は太く、肩幅もある。


 年齢はガルドより少し上か。


 髪は短く刈られ、顔には細かな火傷の跡が残っている。


「おう、ガルド」


 男は槌を置き、こちらを見た。


 そしてノアを見て、眉を上げる。


「……噂のやつか」


「ノアだ」


 ガルドが言う。


「今はうちで見てる」


「ふうん」


 男は恐れるというより、品定めするようにノアを見た。


 武器を見る目に近い。


 だが、研究所の研究員たちの視線とも違う。


 分解するためではなく、使い方を考える視線。


「俺はバルトだ。ここの鍛冶をやってる」


【新規人物:バルト】

【職能:鍛冶】

【反応:観察】


 バルトは自分の胸を親指で示した。


「で、あっちが見習いのトマ」


 作業場の奥で、少年がびくっとした。


 ノアよりずっと小さい。


 リリよりは大きい。


 年齢は十二か十三ほど。


 細い腕に革手袋をつけ、釘の束を抱えている。


 赤茶色の髪が額に張りつき、顔には煤がついていた。


 少年――トマは、ノアを見るなり一歩下がった。


【対象:少年】

【状態:恐怖】


 ノアは動かない。


 相手の反応を記録する。


 恐怖。


 リリが以前言った感情。


 ノアが傷つくことを怖いと言った。


 だが、トマの恐怖は違う。


 トマはノアそのものを怖がっている。


【恐怖:対象ノア】

【未知信号:低下】


 胸部の奥で、信号がわずかに沈む。


 何かが重くなる。


 ノアはそれを分類できない。


 バルトが苦笑する。


「おい、トマ。そんなに固まるな。食われやしねぇよ」


「で、でも……」


「でもじゃねぇ。挨拶だ」


 トマは釘の束を抱えたまま、ぎこちなく頭を下げた。


「……トマ、です」


 ノアは少し遅れて、頭を下げる。


「……ノア」


 トマはまた驚いた。


「しゃ、しゃべった」


「そりゃしゃべるだろ。お前より返事は短いがな」


 バルトはからからと笑う。


 その笑いに敵意はない。


 トマはまだ警戒しているが、バルトの軽さに少しだけ救われているようだった。


 ガルドは持ってきた金具と鎌を作業台に置く。


「橋の金具が曲がった。鎌も刃が欠けてる」


 バルトはそれを手に取り、目を細めた。


「橋は昨日のか」


「ああ」


「こいつが支えたんだろ」


 バルトはノアを見た。


「力加減できるとは聞いたが、本当か?」


 ガルドが答える。


「覚え始めてる」


「へえ」


 バルトは金具を炉の近くへ置いた。


「なら、ちょうどいい。見てろ、ノア」


【学習機会:発生】


 バルトは曲がった金具を火に入れた。


 赤くなるまで待つ。


 何もしない時間。


 だが、それは停止ではない。


 必要な待機。


【工程:加熱】

【即時加工:不可】


 金属が赤くなる。


 バルトは火箸でそれを取り出し、金床の上に置いた。


 槌を振る。


 音。


 金属が伸びる。


 形が変わる。


 だが、壊れてはいない。


 むしろ、壊れかけた形が戻されていく。


【金属変形】

【目的:修復】


 ノアはその動きを見ていた。


 叩く。


 だが壊さない。


 熱する。


 だが溶かしきらない。


 力を加える。


 だが割らない。


【概念:修復】

【関連:加減】


 バルトは手を止めずに言う。


「道具ってのはな、使えば曲がる。欠ける。傷もつく」


 槌の音が続く。


「だが、すぐ捨てるもんじゃねぇ」


 ノアの内部で、処理が止まる。


【語彙:捨てる】

【関連:廃棄】


 廃棄。


 研究所。


 不要。


 旧式。


 投射。


 ノアの中に、遠い記録が薄く浮かぶ。


 白い部屋。


 光。


 評価。


 不要。


 だが、それはすぐに途切れる。


 まだ完全な記憶ではない。


【旧記録:断片】

【復元:不完全】


 バルトは金具を水に入れる。


 じゅっと音がして、白い湯気が上がった。


「直せるものは直す。直してまた使う。使い方が変わることもある」


 バルトは金具を取り上げ、確認する。


「捨てるのは最後だ」


 捨てるのは最後。


 その言葉は、ノアの内部に深く残った。


【語彙:捨てる】

【新規関連:最後】


 研究所では違った。


 効率が低ければ廃棄。


 異常があれば廃棄。


 使えないと判断されれば廃棄。


 直す、という選択肢はほとんどなかった。


 だが、ここでは違う。


 曲がった金具は熱され、叩かれ、また橋へ戻される。


 欠けた鎌も、刃を整えればまだ使える。


 ノアは自分の手を見る。


 旧式。


 廃棄予定。


 異世界投下。


 自分は、捨てられるはずだった。


 しかし今、ここにいる。


 リリが名前をくれた。


 エルナが布を置いた。


 ガルドが加減を教えた。


 村長が頼んだ。


 バルトが言った。


 捨てるのは最後。


【自己認識:変動】


 胸部の機導炉が、小さく明滅する。


 バルトがそれに気づいたのか、少しだけ目を細めた。


「お前も、どっか直せるのか?」


 問い。


 ノアは答えられない。


「……不明」


「そうか。まあ、見たところ簡単には壊れそうにねぇが」


 バルトは笑う。


「でも、壊れたら来い。鍛冶屋に直せる場所なら、見てやる」


 トマが横で目を丸くした。


「親方、それ、本気ですか?」


「本気だ。動くもんはいつか壊れる。壊れたら直す。鍛冶屋はそういう仕事だ」


「でも、それ、人じゃ……」


 トマは言いかけて止まる。


 ノアを見る。


 言葉を探している。


 人じゃない。


 物でもない。


 どう呼べばいいのか分からない。


 その迷いは、村人たちの迷いと同じだった。


 ノアは言う。


「……ノア」


 トマが顔を上げる。


「え?」


「……ノア」


 名前。


 リリが与えたもの。


 エルナが認めたもの。


 ガルドが時折呼ぶもの。


 村長も使ったもの。


 トマは少し困った顔をした。


「……ノア、さん?」


 その場が少し静かになる。


 バルトが吹き出した。


「さん付けか!」


 トマは顔を赤くする。


「だ、だって!」


 ガルドもわずかに口元を動かした。


 笑ったのかどうかは分からない。


 ノアは処理する。


【呼称:ノアさん】

【外部反応:笑い】

【敵意:なし】


 ノアは答える。


「……ノア、でいい」


 トマはさらに驚いた。


「え、いいの?」


「……いい」


「そ、そう」


 トマは少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ……ノア」


【関係:微小変化】


 ノアの内部信号がわずかに安定する。


 名前を呼ばれる。


 それはもう、リリだけの行動ではなくなりつつある。


 バルトは鎌の刃を見ながら言った。


「トマ、こいつに水桶持ってこい」


「えっ」


「水桶だ。焼き入れに使う水が減ってる」


「はい!」


 トマは慌てて外へ向かう。


 だが桶は大きく、水が入ると重い。


 まだ少年の体には少し負担がある。


 トマは両手で持ち上げようとしたが、足元が雨上がりの泥で滑った。


「あっ」


 水桶が傾く。


 ノアは動いた。


【対象:トマ】

【状態:転倒危険】

【行動:保護】


 腕を伸ばす。


 水桶を支える。


 同時に、トマの背中には触れない。


 強く触れれば危険。


 支える対象は桶。


 水がこぼれれば作業に支障。


 トマが転べば損傷。


【加減:適用】


 水桶は止まった。


 トマも転ばない。


 ノアは桶だけを持ち上げる。


「……運ぶ」


 トマは固まっていた。


 恐怖ではない。


 驚き。


 その中に、別の信号が混じる。


【対象:トマ】

【状態:驚き/安堵】


「……ありがとう」


 小さな声。


 トマが言った。


 ノアは答える。


「……どういたしまして」


 バルトが満足そうに頷く。


「よし。今のはいい手伝いだ」


【評価:肯定】


 トマはまだノアを見ている。


「力、すごいんだな」


「……強い」


「でも、桶、壊さなかった」


「……加減」


 トマは少しだけ笑った。


「加減、できるんだ」


「……覚えている」


 その言葉を聞いて、トマは何かを考えたようだった。


 自分と同じだと思ったのかもしれない。


 見習い。


 覚える途中の存在。


 鍛冶場では、トマもまた叱られ、教えられ、少しずつ覚えているのだろう。


 バルトが言う。


「トマも見習え。力任せに叩くなって何度言わせる」


「はい……」


「返事が小さい」


「はい!」


 ノアは二人を見る。


 教える者。


 覚える者。


 失敗する者。


 直す者。


【関係構造:師弟】

【関連:リリ/エルナ/ガルド】


 鍛冶場の火は赤く燃えている。


 バルトは鎌の刃を研ぎ直し、欠けた部分を整えた。


 完全に新品には戻らない。


 だが、また使えるようになる。


 それが修復。


 元通りではない。


 使える形へ戻すこと。


【修復:元通りではなく継続可能にすること】


 ノアはその定義を記録した。


 昼近くになり、作業は終わった。


 ガルドは直った鎌と金具を受け取る。


「助かった」


「いつものことだ」


 バルトは手を拭きながら言う。


 そしてノアを見る。


「ノア、また来い」


「……また」


「直すものはいくらでもある。壊すだけじゃなく、直す方も覚えろ」


【新規課題:修復学習】


 ノアは頷く。


「……覚える」


 トマが小さく手を上げた。


「えっと……また」


 ぎこちない。


 だが、朝よりも恐怖は減っている。


 ノアも頭を下げる。


「……また」


 ガルドとノアは鍛冶場を出た。


 外の空気は、炉の中よりずっと冷たい。


 ノアの外殻についた熱が、ゆっくり逃げていく。


 帰り道、ガルドは何も言わなかった。


 だが、しばらく歩いてからぽつりと言った。


「バルトは口は悪いが、腕はいい」


「……腕、いい」


「道具を見る目がある」


 少し間を置く。


「人を見る目も、たまにはある」


【語彙:見る目】

【意味:価値判断能力】


 ノアは処理する。


「……ノア、見られた」


「ああ」


「……道具として?」


 ガルドが足を止めた。


 雨上がりの道に、二人の足音だけが残る。


 ガルドは振り返る。


「最初はな」


 正直な返答。


「だが、最後は少し違った」


「……違った」


「お前が桶を壊さずに支えたからだ」


 桶。


 トマ。


 ありがとう。


 どういたしまして。


「……加減」


「そうだ」


 ガルドは再び歩き出す。


「強いだけなら警戒される。壊さず使えると分かれば、少し変わる」


【外部評価:強さのみ=警戒】

【加減可能=信頼候補】


 信頼。


 また、その語彙が内部で浮かぶ。


 橋を支えた時。


 村長が言った。


 日々で示すしかない。


 今日、鍛冶場で示したこと。


 桶を壊さなかった。


 トマを転ばせなかった。


 バルトにまた来いと言われた。


【信頼:小行動の蓄積】


 仮定義が更新される。


 家に戻ると、リリが待っていた。


「どうだった? 鍛冶屋さん!」


「……火。金属。直す」


「直す?」


「……曲がったもの、戻す。欠けたもの、使えるようにする」


 リリは目を丸くする。


「すごいね」


 エルナが奥から出てくる。


「おかえりなさい。何か覚えたのかしら」


「……修復」


「修復?」


「壊れたもの、続ける」


 エルナは少しだけ表情を変えた。


 その言葉に、何かを感じたようだった。


「そうね」


 静かに言う。


「壊れたものを、すぐに捨てなくてもいいことはあるわね」


 ノアはエルナを見る。


「……捨てるのは最後」


 エルナは驚いたように目を開く。


「誰に教わったの?」


「……バルト」


「そう」


 エルナは微笑んだ。


「いいことを教わったのね」


 リリが首を傾げる。


「捨てるのは最後?」


「うん」


 エルナはリリに向き直る。


「大事に使うということよ。壊れたら、直せるか考える。汚れたら洗う。曲がったら戻す。すぐにいらないと言わない」


 リリは少し考えた。


「じゃあ、ノアも?」


 その問いに、場が静かになった。


 ガルドが動きを止める。


 エルナもリリを見る。


 リリは悪気なく、まっすぐにノアを見ている。


「ノアも、捨てられないでここに来たんだよね?」


 ノアの内部で、断片が揺れる。


 研究所。


 白い光。


 廃棄。


 旧式。


 異界投射。


 ついで。


【旧記録:断片再生】

【状態:不安定】


 ノアは沈黙する。


 リリの顔が少し不安になる。


「……ノア?」


 エルナがリリの肩に手を置く。


「リリ」


「あ……」


 リリは自分が何か難しいことを言ったのだと気づいたようだった。


「ごめんね」


【語彙:ごめん】

【関連:相手を傷つけた可能性】


 ノアは処理する。


 傷。


 外傷なし。


 機能障害なし。


 だが、内部信号が乱れている。


【未知信号:揺れ】

【原因:旧記録】


 ノアはゆっくり言う。


「……ノア、捨てる予定」


 エルナの表情が変わる。


 ガルドもノアを見る。


 リリは口元を押さえた。


「……予定?」


「……廃棄」


 その言葉は、納屋の中でも、家の前でも、今まで出てこなかった。


 廃棄。


 研究所の語彙。


 冷たい語彙。


 使えないものを消すための語彙。


 リリは泣きそうな顔になった。


「だめだよ」


 短い言葉。


「ノア、だめ」


 説明になっていない。


 だが、リリにとってはそれだけで十分なのだろう。


 エルナは静かにノアへ近づく。


「ノア」


「……ノア」


「ここでは、あなたをすぐに捨てたりしないわ」


 すぐに。


 その言葉は、完全な永遠ではない。


 だが、今のノアには強く響いた。


「分からないことは多いけれど、少しずつ見ているの」


 エルナの声は穏やかだった。


「あなたが何を覚えて、何を選ぶのか」


 ガルドが低く言う。


「勝手に壊れるな」


 それは優しい言葉には聞こえない。


 だが、ノアは少しだけ理解し始めていた。


 ガルドは、柔らかく言わない。


 だが、前に立つ。


 責任を持つ。


 壊れるなと言う。


【ガルド発言:損傷回避要求】

【関連:保護】


 ノアは言う。


「……直せる?」


 誰に向けた問いか、自分でも定義できない。


 外殻か。


 内部か。


 旧式という事実か。


 廃棄予定という記録か。


 それとも、今揺れている未知信号か。


 エルナは少し考えた。


「全部は分からないわね」


 正直な答え。


「でも、痛いところや困っているところがあるなら、一緒に考えることはできるわ」


 一緒に考える。


【語彙:一緒】

【関連:共有/支援】


 リリがノアの近くまで来る。


 今日は距離を忘れている。


 だが、ガルドは止めなかった。


 リリはノアの手を見た。


 触れるかどうか迷う。


 そして、そっと指先で触れた。


「ノアは、ここにいていいよ」


【未知信号:最大】


 ここにいていい。


 エルナも以前、似たことを行動で示した。


 食事を置いた。


 布を置いた。


 軒下に椀を置いた。


 リリは言葉で言った。


 ここにいていい。


【概念:居場所】

【関連:ここ/ただいま/名前】


 ノアの胸部の機導炉が、いつもより強く明滅した。


 リリはそれを見て、少し驚く。


「光った」


 ノアは自分の胸を見る。


【機導炉出力:微増】

【原因:未知信号】


 ガルドが眉を寄せる。


「異常か」


「……不明」


「苦しいのか」


 苦しい。


 新しい問い。


 痛いではない。


 壊れているでもない。


 ノアは処理する。


「……苦しい、未定義」


 エルナが静かに言う。


「無理に答えなくていいわよ」


 無理に答えなくていい。


 リマナントだった頃には存在しなかった許可。


 ノアは沈黙する。


 それでよかった。


 誰も急かさない。


 誰も評価しない。


 誰も廃棄判定を下さない。


 その沈黙の中で、ノアの内部信号は少しずつ落ち着いていった。


【未知信号:安定化】


 昼過ぎ。


 リリは読み書きへ向かい、エルナは薬草の整理を始めた。


 ガルドは畑へ行く準備をしている。


 ノアは納屋へ戻り、棚の花を見た。


 花はまだある。


 器の水は少し減っている。


 ノアは水を足す。


 入れすぎない。


 少なすぎない。


【加減:水量調整】


 花を捨てない。


 続ける。


 その行動は小さい。


 橋を支えるよりも小さい。


 敵を倒すよりも小さい。


 桶を支えるよりも小さい。


 だが、ノアには同じ線の上にあるように思えた。


 曲がった金具を直す。


 欠けた鎌を研ぐ。


 怖がるトマと挨拶する。


 橋を支える。


 花に水を足す。


 廃棄予定だったノアが、ここにいる。


【修復:物体のみではない可能性】


 ノアはその仮説を保存した。


 夕方、ガルドが戻ってきた。


「ノア」


「……ノア」


「明日、鍛冶場へまた行く」


「……修復」


「そうだ。バルトが、お前に簡単な道具運びを頼みたいそうだ」


 頼まれる。


 また頼まれる。


【役割:継続】


「……行く」


「勝手に判断するな。聞いて動け」


「……聞いて動く」


「それでいい」


 ガルドはそれだけ言って家に入ろうとしたが、途中で止まった。


 振り返らないまま、低く言う。


「ノア」


「……ノア」


「ここでは、壊れたら直す」


 短い言葉。


「だから、黙って壊れるな」


 それだけ言って、ガルドは家の中へ入った。


 扉が閉まる。


 ノアはその場に立っていた。


 黙って壊れるな。


 壊れたら直す。


 捨てるのは最後。


 ここにいていい。


 言葉が重なる。


【未知信号:温】

【名称候補:安心】


 安心。


 まだ完全には分からない。


 だが、敵がいない状態とは違う。


 損傷がない状態とも違う。


 誰かが、壊れた時のことまで考えている状態。


 それに近い。


 夜。


 納屋の中で、ノアは座っていた。


 棚の花は、まだ残っている。


 明日も水を足せば、もう少し続くかもしれない。


 鍛冶場へ行けば、また修復を学べるかもしれない。


 トマはまだ怖がるかもしれない。


 それでも、また名前を呼ぶかもしれない。


 ノアは胸部の光を静かに落としながら、今日の言葉を並べた。


「……修復」


 曲がったものを戻すこと。


「……捨てるのは、最後」


 すぐに不要としないこと。


「……ここにいていい」


 リリの言葉。


「……黙って壊れるな」


 ガルドの言葉。


 それらは、すべて違う音だった。


 だが、同じ場所へ向かっているように感じられた。


【存在:更新】

【自己状態:廃棄予定から保留へ】

【新規仮説:修復可能】


 廃棄予定。


 その記録は消えていない。


 消えない。


 だが、その後ろに新しい記録が並ぶ。


 ノア。


 ありがとう。


 ただいま。


 役割。


 続く。


 修復。


 ここにいていい。


 記録は上書きではない。


 積み重なる。


 人がしたことは、どこかに残る。


 ならば、ノアが受け取った言葉も残る。


 リリの声も。


 エルナの手も。


 ガルドの背中も。


 バルトの槌の音も。


 トマのぎこちない「ノア」も。


 残る。


 残って、内部の冷たい場所を少しずつ変えていく。


 ノアは花を見る。


「……まだ、ある」


 花は答えない。


 だが、そこにある。


 それだけでよかった。


 夜風が納屋の壁を鳴らす。


 ノアは静かに座っていた。


 壊すために作られた手で、今日、水を足した。


 廃棄されるはずだった機体が、今日、捨てるのは最後だと教わった。


 それは小さなことかもしれない。


 けれど、ノアの中では大きく残った。


 火床で叩かれた金具のように。


 形を変えながら。


 割れずに。


 まだ、使えるものとして。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ