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今度は三国志の真っ只中にいます  作者: 水原伊織


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53.異形との戦いの果てに生まれた責務

張世平が率いる商隊は、冀州南部からの帰路、丘を越えた瞬間に足を止めた。

彼の視界に広がったのは、かつての鄴ではなかった。


地面は黒く脈動し、ぬめりを帯びた膜が地表を覆い、城壁は半ば溶けて異形の肉塊と融合している。

塔は触手のように伸び、空を掴むように蠢いていた。


風が吹くたび、低い呻きが響く。

それは声なのか、呼吸なのか、巣そのものの鼓動なのか、判別できない。


商隊の者たちは皆、馬を止め、震えながら後ずさった。


「あれが、鄴なのか?」

「もう、あれは」


誰も言葉を続けられなかった。


張世平は唇を噛みしめた。

商人として幾度も戦場を越えてきたが、こんな光景は見たことがない。


「急ぎ、神域へ戻る」

彼の声に、商隊は一斉に踵を返した。


----


神域の本営に、張世平の商隊が駆け込んだのは、夕刻の直前だった。

馬は泡を吹き、商人たちは土埃にまみれ、誰もが恐怖に顔を強張らせていた。


「父上、どうしたのですか」

織が駆け寄ると、張世平は馬から転げ落ちるように降り、肩で息をしながら叫んだ。

「鄴が、もう街ではないのだ」


廠と織が目を見交わす。


「詳しく話して」


張世平は震える声で言葉を絞り出した。

「地面は黒く脈打ち、城壁は溶けて異形の肉と混ざり合っておった。塔は触手のように伸び、呻き声が響いていた。

あれは、もう人の住む場所ではない。完全に“巣”だ」


織の表情が固まる。


「繁殖かもしれない」


廠は静かに息を吐いた。

「鄴が落ちた時点で、こうなる可能性はあった。だが、想像以上に早い」


張世平は拳を握りしめた。

「廠殿、あれは冀州そのものが呑まれるぞ」

「とりあえず、劉備殿の軍にも知らせよう」

廠は、朧を呼んだ。

「今の話を、劉備殿に伝えてくれ。そして、境界線の守備をお願いしたいとも」

「はい」

朧は駆け去っていった。


----


冀州南部の境界線。

かつては村々が点在し、穏やかな往来があった街道は、今や静まり返っていた。

風が吹くたび、遠く北の方角から、低い唸りのような音が微かに届く。


その静寂を破るように、整然とした足音が大地を震わせた。

劉備軍五万が、境界線へと進軍してきたのだ。


先頭に立つ劉備は、馬上から北の空を見つめる。

黒い雲のような影が、ゆっくりと蠢いている。


「あれが、鄴の方角か」


関羽が静かに頷いた。

「張世平殿の報告が事実ならば、すでに巣となっているのでしょう」

張飛は槍を肩に担ぎ、鼻を鳴らした。

「上等だ。異形だろうが何だろうが、まとめて叩き斬ってやる」


趙雲は周囲を見渡しながら、冷静に言葉を添える。

「しかし、敵は人ではありません。慎重に進めましょう」

劉備は深く頷いた。

「廠殿から預かった五万だ。帝や民を守るための兵であることを、忘れてはならぬ」


劉備軍は、迅速に陣を敷いた。

見張り台が次々と建てられ、松明が灯される。

夜の帳が降りる頃には、境界線一帯が光の帯となって浮かび上がった。


兵たちは盾を並べ、槍を構え、静かに息を整える。

しばらくは、この地帯で駐屯するつもりで、劉備軍は野営の準備を始めた。


----


荊州北部の野営地。

夕陽が沈み、赤い光が地平線を染めていた。


曹操は地図の上に手を置き、静かに呟いた。

「また一つ、帰順の使者が来たか」


夏侯惇が頷く。

「はい。徐州の豪族たちが、異形の群れを退けた殿の軍を頼り、そのまま帰順したとのこと。

予州・兗州でも同じ動きが続いております」


程昱が巻物を広げる。

「殿が異形を討ちながら進んだことで、各地の民が“守ってくれる者”として殿を受け入れたのでしょう。

奪ったのではなく、自然と領地が広がった形です」

「もう天下は異形との争いだ。人同士で覇権を競っている場合ではないのだ。異形に怯える民を見捨てることはできない」

「殿は、神軍と同様、人の世を守る者として見られております。それが、今の中原の姿です」


曹操は地図を見つめた。

荊州北部、予州、徐州、兗州。

かつて群雄が争った要衝が、今はすべて自軍の旗色に染まっている。


「皮肉なものだな。戦ではなく、異形との戦いが領土を広げるとは」

「しかし、これは必然でもあります。異形の脅威が広がる中、民は“守れる者”に従う。

それが殿であったというだけのこと」


「ならば、背負うしかあるまい。この地を守る責務を」


夏侯惇が深く頭を下げる。

「殿が進む道は、人の世を繋ぐ道です」


曹操は遠くの空を見た。

北の方角。そこには、冀州と、そして“巣”となった鄴がある。


「廠、そなたもまた、異形と戦っているのだろう。いずれ、力を合わせねばならぬ時が来る」


風が吹き、地図の端が揺れた。

曹操はその揺れを押さえながら、静かに呟いた。

「人の世を守るためならば、いかなる地も、いかなる戦も厭わぬ」


その眼差しは、かつての野心に加えて、守る者の覚悟に満ちていた。

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