51.民心ゼロ。袁紹、帰還して絶望する
白馬を越え、敗走する袁紹軍はようやく追撃の影が薄れたことで、荒い息をつきながら北へ進んでいた。
だが、進むにつれ、兵たちの顔色が変わっていく。
「……おかしい。砦の狼煙が上がっていない」
「見張り台に人影がないぞ」
「まさか、曹操軍がここまで……?」
ざわめきが広がる中、先行していた騎兵が戻ってきた。
その顔は蒼白だった。
「報告、前方の小砦、守兵が全滅しています」
袁紹は馬上で目を見開いた。
「全滅だと? 曹操軍の仕業か」
騎兵は首を振る。
「いえ、まるで、何かに喰い破られたような……」
兵たちの背筋に冷たいものが走る。
張郃を失い、士気が地に落ちた軍勢に、さらに不気味な影が覆いかぶさった。
審配が険しい顔で言う。
「殿、これは、異形の仕業かもしれませぬ」
袁紹は息を呑んだ。
「冀州に異形が?」
審配は頷く。
「本隊の大部分を官渡へ連れ出したため、冀州の守りは手薄。異形への備えも、ほとんど残っておりませぬ」
その時、前方から悲鳴が上がった。
「来るぞ、何か来る!」
兵たちが槍を構え、震える声で叫ぶ。
森の影から、黒い影がいくつも飛び出してきた。
四足とも二足ともつかぬ、歪んだ肢体。
赤い眼が闇に浮かび、牙が月光を反射する。
「異形だ――っ!」
兵たちが一斉に後退する。
審配が剣を抜き、叫ぶ。
「怯むな! 殿を守れ!」
だが、異形は砦を蹴散らした勢いのまま、敗走中の軍勢に襲いかかった。
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「うわあああっ!」
「やめろ! 来るな!」
「槍を構えろ! 隊列を――ぎゃああ!」
混乱は瞬く間に広がり、整っていたはずの退却路が再び地獄と化す。
袁紹は馬を走らせながら、震える声で叫んだ。
「くそ、神域のある冀州は、安全だったはずだ」
審配が必死に馬を寄せる。
「殿、ここは退くしかありません、このままでは、異形に呑まれます」
「退くしかないのか」
異形の群れは、敗走する兵を追い散らしながら迫ってくる。
袁紹軍は、官渡での敗北に続き、故郷の地でも再び総崩れとなった。
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夜の闇が迫る中、袁紹軍は散り散りになりながら北へ逃げ続けた。
背後では、異形の咆哮が響き、冀州の砦が次々と炎に包まれていく。
袁紹は馬上で、震える声を漏らした。
「冀州は、どうなってしまったのだ」
審配は唇を噛みしめ、答える。
「殿、急ぎ鄴へ。あそこだけは、まだ守りが残っているはずです」
袁紹は頷き、馬を走らせた。
白馬を越え、ようやく曹操軍の追撃を振り切った袁紹軍は、疲れ切った兵を引き連れ北へ進んでいた。
だが、冀州に入るにつれ、兵たちの顔色はさらに暗くなっていく。
「村が、空だ」
「人の気配がない」
「まさか、皆殺しに……?」
ざわめきが広がる中、先行していた騎兵が戻ってきた。
その顔は蒼白で、声は震えていた。
「報告。冀州の民は、ほとんどが神域へ避難しております。豪族たちが協力し、神域を拡張したとのこと」
袁紹は馬上で目を見開いた。
「神域に、か」
「異形が、冀州中に跋扈しております。各地の砦は蹴散らされ、守兵はほぼ全滅」
兵たちの背筋に冷たいものが走る。
審配が険しい顔で言う。
「殿、本隊の大部分を官渡へ連れ出したため、冀州の備えは手薄でした。異形への対策も、ほとんど残っておりませぬ」
袁紹は唇を噛みしめた。
「今まで、冀州は、平和だったはずだ。私のせいか?」
騎兵は沈黙した。
その沈黙こそが、答えだった。
兵たちの間から、押し殺した声が漏れる。
「殿が戦を始めたから、異形が現れたのだと」
「神域に逃げた民は、皆そう言っているらしい」
袁紹の顔から血の気が引いた。
「馬鹿な、そんなはずが」
だが、兵たちの視線は冷たかった。
かつて河北を統べた名門の威光は、すでに地に落ちていた。
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冀州の荒れ果てた道を進むにつれ、異形の襲撃は続いた。
散発的な襲撃により、敗走中の軍勢はさらに削られていく。
「うわあああっ!」
「来るな! 来るなぁ!」
「隊列を、ぎゃああ!」
鄴の城門が見える頃には、十万を誇った軍勢は、わずか一万にまで減っていた。
袁紹は馬上で震える声を漏らした。
「これが、冀州なのか」
「殿、鄴より北は、すべて神域となっております。豪族たちが民を守るため、領地を差し出し、神域を拡張したとのこと」
「北がすべて神域?」
審配は頷く。
「もはや冀州は、殿の治める地ではございませぬ。民は神域に逃れ、豪族はそちらに従っております」
袁紹は言葉を失った。
かつて河北四州を掌握し、天下を狙った男が、今や故郷にすら居場所を失っていた。
鄴の城門が開き、疲れ果てた兵たちが雪崩れ込む。
その背後では、異形の咆哮が遠く響いていた。
袁紹は馬上で、ただ呟いた。
「私は何を…」




