50.忠言無視の果て、張郃捕縛
烏巣の炎は、まだ夜空を赤く染めていた。
その光が、袁紹の天幕の布を赤く照らす。
袁紹は拳を握りしめ、幕僚達に叫んでいた。
「まだ官渡は落ちんのか」
「殿、私も行きます」
審配が、剣を持ちながらそう言う。
「文官のお主が出ていって、なんになる?張郃を呼べ」
「ははっ」
審配が天幕を出ていくと、外の空気が一瞬ざわめいた。
すぐに、甲冑の擦れる音が近づいてくる。
「張郃、参上いたしました」
幕を押し分けて入ってきた張郃は、戦場の埃をまといながらも姿勢は崩さず、袁紹の前に立った。
袁紹は、怒りとも焦りともつかぬ声で言い放つ。
「張郃、いつになったら官渡は落ちるのだ、城門は弱っているのだろう。攻め立てれば崩れるはずだ」
張郃は、わずかに目を伏せた。
その沈黙が、逆に重く響く。
「殿。官渡は、落ちませぬ」
「何だと?」
袁紹の声が震えた。
張郃は顔を上げ、真っ直ぐに主君を見据える。
「兵の疲労は極みに達し、士気も揺らいでおります。加えて、烏巣の兵糧を失えば、我らは十万といえど、明日を戦えませぬ」
袁紹の拳が震え、机を叩いた。
「黙れ、官渡を落とせばよいのだ。曹操を討てば、兵糧など後からいくらでも」
「殿」
張郃の声が、天幕の空気を裂いた。
普段は穏やかな武将の、珍しい強い声音だった。
「兵糧なくして戦はできませぬ。このまま攻め続ければ、我らは自滅いたします」
袁紹は言葉を失い、張郃を睨みつける。
しかし、その目には迷いが宿っていた。
張郃は、静かに続けた。
「今は兵をまとめ、態勢を立て直すべき時。烏巣を失った以上、戦の継続は不可能です」
天幕の外では、まだ遠く烏巣の炎が夜空を赤く染めている。
その光が、袁紹の顔を照らし、影を深く落とした。
「撤退だと?」
張郃は深く頭を垂れた。
「ここはご決断を」
袁紹は唇を噛みしめ、拳を震わせた。
その姿は、かつて河北を統べた名門の当主ではなく、追い詰められた一人の男のようだった。
「少し、考える時間をくれ」
外の空気は冷たく、しかし遠くの炎だけが熱を帯びて揺れていた。
張郃が天幕を出ていこうとすると、そこに審配が戻ってきた。
その顔には、焦りと決意が入り混じっている。
「殿、私も戦場へ出ます。官渡を攻め立て、曹操を討ちましょう」
張郃は足を止めた。
振り返ると、審配が剣を握りしめている。
「文官のあなたが、何をなさるおつもりですか」
張郃の声は低く、怒りを抑えきれていなかった。
審配は眉をひそめ、張郃を睨み返す。
「張郃殿、今は誰もが戦わねばならぬ時。文官も武官もない」
「戦場を知らぬ者が、軽々しく口にするな」
張郃の胸には、烏巣を救えなかった悔しさと、兵たちの疲弊を理解しない審配への苛立ちが渦巻いていた。
審配は一歩踏み出し、張郃に言い返す。
「ならば、あなたは官渡を落とせるのか。落とせぬからこそ、殿は焦っておられるのだ」
その言葉に、張郃の拳が震えた。
「貴様」
空気が一気に張り詰める。
だが、その緊張を断ち切ったのは袁紹だった。
「やめよ、二人とも」
袁紹が立ち上がり、二人の間に歩み寄る。
その声には、かつての威厳はなく、疲れと焦りが滲んでいた。
「今は争っている時ではない。皆で力を合わせねばならぬ」
張郃は唇を噛み、審配は静かに頭を下げた。
その瞬間だった。
天幕の外から、荒々しい足音が近づく。
「報告」
伝令が駆け込み、膝をついた。
「曹操軍、烏巣を落とした後、そのまま我が軍の側面へ、官渡を攻囲していた本隊に、攻撃を開始しました」
袁紹の顔が蒼白になる。
「曹操だと、自ら出撃していたのか」
張郃は即座に動いた。
剣を掴み、天幕を飛び出す。
「殿、ここは私が食い止めます。軍をまとめねば全滅します」
審配も慌てて後を追う。
「殿、急ぎ戦場へ。このままでは、総崩れになります」
袁紹は震える手で兜を取り、審配に言った。
「行くぞ、私も出る」
審配が頷き、袁紹の甲冑を整える。
――
外では、すでに混乱の叫びが響き始めていた。
曹操軍が側面から突入し、袁紹軍の陣が大きく揺らいでいる。
袁紹は馬に乗り、審配を伴って戦場へ向かった。
その背中には、かつての覇者の威光はなく、ただ必死に崩壊を止めようとする一人の男の影があった。
そして張郃は、乱れた陣の中で声を張り上げる。
「退くな、踏みとどまれ」
だが、曹操軍の突撃は鋭く、袁紹軍の混乱は広がるばかりだった。
――
曹操軍が側面から突入したことで、袁紹軍の陣は大きく揺らいでいた。
張郃は必死に兵をまとめ、混乱の中で声を張り上げる。
「怯むな、隊列を整えよ。我らが崩れれば、全軍が」
その時だった。
官渡城の城門が、轟音とともに開いた。
「出撃する」
城内から飛び出したのは、先ほど互角に渡り合った曹洪。
その背後には、整然とした曹操軍の精鋭が続く。
張郃は目を見開いた。
「あれは」
曹洪は馬上から槍を構え、一直線に張郃へ突き進む。
「覚悟」
張郃も剣を構え、迎え撃つ。
二人の武器が激しくぶつかり、火花が散る。
だが、先ほどとは違った。
張郃の背後には混乱した袁紹軍。
曹洪の背後には整然とした曹操軍。
その差が、わずかな隙となって現れた。
曹洪の槍が、張郃の剣を弾き飛ばす。
「くっ」
張郃は体勢を崩し、馬上から落ちた。
すぐに曹操軍の兵が押し寄せ、張郃を取り囲む。
「敵将、捕らえたり」
張郃は歯を食いしばりながらも、抵抗をやめた。
「……無念」
その瞬間、袁紹軍の陣形は完全に崩れた。
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「張郃将軍が捕らえられたぞ!」
「側面が破られた! もう持たぬ!」
「退け! 退けぇ!」
混乱は瞬く間に広がり、十万の軍勢が雪崩のように後退を始めた。
審配は必死に叫ぶ。
「退くな、殿がおられるぞ、踏みとどまれ」
だが、誰も耳を貸さない。
袁紹は馬上で震えながら、崩れゆく自軍を見つめていた。
「なぜだ」
審配が叫ぶ。
「殿、ここはご退却を、このままでは包囲されます」
袁紹は唇を噛みしめ、ついに頷いた。
「退く。審配、ついて来い」
二人は馬を走らせ、崩壊する軍勢の中を抜けていく。
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曹操軍は勢いに乗り、逃げる袁紹軍を徹底的に追撃した。
「追え、一人も逃すな」
「押し返すぞ」
官渡から白馬へ向かう道には、敗走する袁紹軍の影が続く。
曹操軍の騎兵が次々と追いつき、袁紹軍の背を突いた。
袁紹は必死に馬を走らせながら、背後の光景を振り返る。
そこには、かつて河北を震わせた十万の軍勢が、砂塵の中で崩れ落ちていく姿があった。
「終わったのか、我が戦は」
審配は歯を食いしばり、袁紹の横で叫ぶ。
「殿、まだ終わりではありません。鄴へ戻り、再起を図りましょう」
袁紹は答えず、ただ前を向いて馬を走らせた。
その背後では、曹操軍の旗が風に翻り、勝利の雄叫びが響いていた。




