48.闇を裂く烏巣の火
夜は深く、月は薄雲に隠れていた。
闇はすべてを呑み込み、馬の蹄音すら吸い込んでしまいそうな静けさが広がっている。
その闇を裂くように、曹操軍の騎馬隊が疾走していた。
曹操自身が先頭に立っている。
許攸の道案内で、ひた駆けてきたのだ。
張遼が前へ出て声をかける。
「殿、偵察より報告。やはり烏巣に、莫大な兵糧が蓄えられております」
許攸が馬上で鼻を鳴らす。
「これで、分かったであろう?」
曹操は許攸を横目で見た。
「許攸殿。そなたの情報は、真であったな。ここを落とせば、戦局は傾く」
許攸は誇らしげに顎を上げた。
「曹孟徳。そなたならば、この機を逃さぬと信じていた」
その言葉に、曹操はわずかに口元を緩めた。
――
その頃、烏巣では、巨大な兵糧庫の前で、松明が揺れていた。
だが、その光はどこか心許ない。
守備兵たちは緊張感を欠き、酒の匂いが漂っている。
淳于瓊は酒杯を片手に、ふらつきながら兵糧庫を見回していた。
「ここを狙うなど、ありえぬわ」
幕僚が恐る恐る進み出る。
「しかし将軍、念のため警戒を」
「袁紹様は官渡を攻めておられるのだ。曹操がここへ来るはずがない」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
夜風が吹き、松明の火が揺れる。
その揺らぎの向こう、闇の奥で、かすかな地響きが生まれ始めていた。
――
「殿、前方に灯り。烏巣です!」
偵察兵の声に、曹操は馬を止めた。
丘の上から見下ろすと、巨大な兵糧庫が闇の中に浮かび上がっている。
曹操は深く息を吸い、静かに言った。
「火を放つ」
許褚が頷き、張遼が手を挙げる。
「全軍、突撃準備」
兵たちが一斉に槍を構え、松明を掲げる。
その炎が、夜の闇を赤く染めた。
曹操は馬首を烏巣へ向け、声を張り上げた。
「今こそ、天下を決する時ぞ!」
その叫びとともに、曹操軍は闇を裂いて突撃した。
――
烏巣の夜は、静まり返っていた。
酒の匂いが漂い、兵たちは気の緩んだ空気の中で松明の火を眺めている。
その時、地の底から響くような、低い震動が夜気を揺らした。
「馬の音だ」
最初に気づいたのは、酔いの残る若い兵だった。
次の瞬間、淳于瓊の耳にもその音が届く。
地面を叩く蹄の連打が、確実に近づいてくる。
「敵襲だ」
淳于瓊は酒杯を叩き落とし、立ち上がった。
酔気は一瞬で吹き飛び、目に鋭い光が宿る。
「全軍、武器を取れ」
怒号が飛び、兵たちが慌てて動き出す。
酔っていた者も、将の声に背筋を伸ばした。
淳于瓊は剣を抜き、前線へと駆け出した。
――
闇の向こうから、松明の光が一斉に現れた。
その中心に立つのは張遼。
馬上で槍を構え、声を張り上げる。
「突撃」
曹操軍の騎兵が一斉に駆け出し、烏巣の柵門へ殺到した。
衝撃とともに柵が破れ、騎兵が雪崩れ込む。
「来たか」
淳于瓊は剣を構え、張遼率いる騎馬隊と向かい合った。
「袁家の兵糧は、この淳于瓊が守る! かかれ!」
守備兵たちが叫びを上げ、張遼と激突する。
火花が散り、怒号が夜空に響いた。
張遼は馬上から淳于瓊を見つけると、そこを指して叫んだ。
「将を討て」
張遼の突撃で守備は崩れ始めていたが、淳于瓊はなおも踏みとどまり、兵を鼓舞し続けた。
「怯むな」
「そこまでだ」
背後から、地を揺らすような声が響いた。
振り返ると、巨躯の男が迫っていた。
許褚である。
淳于瓊が剣を構えるより早く、許褚の大刀が唸りを上げた。
一撃。
淳于瓊は受け止めたが、腕が痺れ、膝が沈む。
「まだだ」
二撃目。
剣が弾かれ、火花が散る。
三撃目。
許褚の大刀が淳于瓊の首を捉えた。
淳于瓊の身体が崩れ落ち、地面に倒れた。
その目は、最後まで兵糧庫を見つめていた。
許褚は静かに刀を振り払った。
――
張遼が駆け寄り、曹操へ報告する。
「殿、淳于瓊を討ち取りました。守備は完全に崩壊しております」
曹操は頷き、短く命じた。
「火を放て。急げ」
兵たちが松明を掲げ、巨大な兵糧庫へ投げ込む。
乾いた穀物は瞬く間に燃え上がり、炎が夜空を赤く染めた。
風が吹き、炎がさらに勢いを増す。
許攸がその光景を見て、深く息を吐いた。
「これで、袁紹は終わりだ」
曹操は炎を見つめながら言った。
「いや、まだ終わらぬ。官渡を守り切ってこそ勝ちだ。戻るぞ」
曹操軍は兵糧庫を焼き払うと、すぐさま馬首を返した。
夜の闇を切り裂き、官渡へ向けて疾走する。
曹操は馬上で風を切りながら、静かに呟いた。
「これで官渡が落ちていなければ、勝てる」
背後で、烏巣の炎が夜空を赤く染め続けていた。




