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今度は三国志の真っ只中にいます  作者: 水原伊織


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47.許攸の裏切り。曹操、烏巣奇襲を決断す

袁紹軍の攻勢は、日を追うごとに激しさを増していった。


文醜、顔良という“双璧”を失った痛手は確かに大きい。

だが、十万を超える大軍の圧力は、それでもなお官渡の地を揺るがすに十分だった。


最初こそ動揺していた兵たちも、数日のうちに再び勢いを取り戻していた。

「名門袁家の威を示す」という袁紹の檄が、兵たちの胸に火を灯したのだ。


その攻勢の先頭に立つのは張郃であった。


張郃は冷静に戦場を見渡し、攻城具の配置、弓兵の射線、歩兵の進退を的確に指示していく。

彼の指揮は無駄がなく、兵たちの動きはまるで一つの生き物のように滑らかだった。


「張郃将軍、敵の矢が激しく――!」

「怯むな。盾を上げろ。前へ進め」


張郃の声は落ち着いていた。

その声に従い、兵たちは再び前へと押し出す。


官渡の城壁からは、曹操軍の矢が雨のように降り注いでいた。

だが、袁紹軍の兵力は圧倒的である。

一列が崩れても、すぐに次の列が前へ出る。

攻める勢いは止まらない。


張郃は矢を避けながら、城壁の一角を指差した。


「―あそこだ。敵の防御が薄い。攻城梯を集中させろ」


伝令が駆け、兵たちが動く。

張郃の読みは鋭く、曹操軍の弱点を的確に突いていた。


袁紹本陣からその様子を見ていた将たちは、わずかに安堵の息を漏らす。


「張郃殿が先鋒を務めてくれて助かったな……」


「文醜殿、顔良殿を失っても、まだ我らには将がいる」


そんな声が漏れ始め、兵たちの士気はさらに上向いていった。


だが、その背後で、袁紹は別の感情に支配されていた。


「張郃め。よくやっておる」


言葉こそ賞賛だが、その目には焦りと苛立ちが混じっている。

張郃の活躍が、失われた“双璧”の影をより濃く思い出させるのだ。


「官渡を落とせばよい……落とせば、すべては我が威光のもとに戻る……」


袁紹は自らに言い聞かせるように呟いた。


――


曹操陣営では、袁紹軍の攻勢が激しさを増す中、ひとつの疑問が重くのしかかっていた。


「なぜ、兵糧が尽きない」


十万の兵を動かすには、膨大な量の糧秣が必要だ。

河北から官渡までの長い道のりを、すべて運び続けることなど到底できない。


荀攸が地図を広げ、静かに言った。

「殿。袁紹軍は、どこかに兵糧を集積しているはずです。河北から直接運ぶには距離がありすぎます」


荀彧が頷く。

「袁紹軍の兵糧が尽きぬ理由は、途中に“蓄え”があるのです」


曹操は腕を組み、地図を見下ろした。

「蓄え……」


その言葉を反芻しながら、指先で官渡から北方へ線を引く。

「袁紹は十万の兵を動かしている。河北から直接運ぶのは不可能だ。ならば、どこかに兵糧を集め、そこから前線へ運んでいる、か」

曹操の声は低く、しかし確信を帯び始めていた。


そこがどこか分かれば、曹操はそう思っていた。

その矢先だった。


許攸が、投降してきた。

投降してきた許攸は、「曹操と二人だけで話したい」と求めた。


曹操は居並ぶ幕僚たちに退室を命じ、静まり返った天幕の中で許攸と向き合う。


許攸の言葉を聞き終えた曹操は、しばし沈黙した。


天幕の外では、夜風が砂を巻き上げ、幕の布をぱたぱたと揺らしている。

その音が、二人の間に張りつめた空気をいっそう際立たせた。


「許攸殿。そなたの来訪は、天が我に与えた好機だ」


曹操は立ち上がり、許攸の肩を両手でつかんだ。

わざと大げさに、まるで旧友に再会したかのように。


「よくぞ来てくれた! そなたの才を、わしは昔から惜しいと思っていたのだ」


許攸の目が、わずかに揺れた。

誇り高い男が“認められた”と感じた時にだけ生まれる、あの微かな揺らぎだった。


「ふん。袁紹の下では、わしの進言など耳にも入らぬ。だが、曹孟徳。そなたならば、使いこなせよう」


その瞬間、許攸は完全に曹操の側へ傾いた。


----


天幕の外で待っていた夏侯惇、荀彧らが呼び入れられる。

彼らは許攸の言葉を聞き、険しい表情を交わした。


「殿。罠の可能性も捨てきれませぬ」

「だが、烏巣が本当に兵糧庫であるなら、ここで動けば袁紹軍は崩れる」


荀彧が静かに言うと、曹操は頷いた。


「疑うのは当然だ。しかし」


曹操は天幕の中央へ歩み出て、全員を見渡した。


「袁紹は大軍を率いているが、兵糧は限られている。烏巣を焼けば、奴の十万はただの群れに成り下がる。勝機は、今しかない」


許攸が一歩進み出る。

「烏巣までの道は、わしが案内しよう。袁紹の本営より、そなたの陣からの方が近い。奇襲すれば、守りは薄いはずだ」


曹操は深く息を吸い、決断を下した。

「よし。許褚、張遼の騎馬隊を率いて烏巣を突く。残りは官渡に残し、袁紹を牽制せよ」


夏侯惇が前に出る。

「殿、自ら行かれるのですか」

「夏侯惇は官渡の守備の総指揮を取れ。例え烏巣が落ちても、官渡が落ちていれば負けだ」


今まで黙っていた曹洪が口を開く。

「殿、烏巣には私が行きます」

「いや、曹洪。お前が官渡守備部隊の前線指揮官だ。夏侯惇とともに、官渡を守れ」

「ですが」

「袁紹は必死になっている。お前も、夏侯惇とともにここを守ってくれ」

「…はい」


夜の闇が深まる中、曹操軍は密かに動き始める。


----


官渡の城壁には、今日も絶え間なく矢が降り注いでいた。

昼夜の別なく続く射撃は、曹操軍の兵を休ませる暇すら与えない。


「また来たぞ、伏せろ!」


兵たちは盾を重ね、城壁の陰に身を寄せる。

矢が石壁に突き刺さる音が、雨音のように響き続けた。

袁紹軍は攻め手を緩めない。


攻城具は次々と前へ押し出され、弓兵は交代で射続け、歩兵は波のように押し寄せる。

その圧力は、まさに大軍の利そのものだった。


袁紹は、勝ちを確信していた。

官渡の城壁は削れ、張郃の攻勢は日ごとに勢いを増している。

幕僚たちを呼び集め、勝利を前提とした軍議が始まっていた。


「張郃の働きは見事だ。官渡の守りも、もはや限界であろう」

「殿。明日にも総攻撃をかければ、官渡は落ちましょう」


幕僚たちの声は明るく、勝利を疑う者は一人もいなかった。

袁紹もまた、満足げに頷く。


「うむ。やはり我が河北四州の力は、天下に冠たるものよ。曹操など、もはや風前の灯火にすぎぬ」


その時だった。

「報告――っ!」


軍議の空気を裂くように、伝令が駆け込んできた。

息を切らし、膝をつきながら叫ぶ。


「殿! 軍が……軍が動いております!」


袁紹は眉をひそめた。

「どこの軍だ」

「い、いえ…曹操軍の一部が、夜陰に紛れて陣を離れたとのこと!」


軍議の場がざわめいた。

「曹操軍が? 官渡を捨てる気か?」

「まさか、逃亡ではあるまいな」

「しかし、この状況で動く理由が……」


袁紹は手を上げ、ざわめきを制した。


「ふん。小細工よ。官渡が落ちるのを悟り、何か策でも弄したつもりであろう」


その声音には余裕があった。

だが、その目の奥には、わずかな苛立ちが走る。


「どの方向へ向かったのだ」


伝令は震える声で答えた。

「北西、烏巣の方角とのこと」


軍議の空気が一瞬で凍りついた。


「烏巣…?」

「なぜ烏巣へ…?」

「まさか、兵糧を」


幕僚たちの視線が、一斉に袁紹へ向けられた。

その圧に晒された袁紹の顔から、わずかに血の気が引く。


「……それは本当なのか?」


声は低く、しかし震えを押し殺したようだった。

伝令は深く頭を垂れたまま答える。


「はい。進軍の方向とその勢いから、明らかに烏巣に向かっているとしか思えません」


ざわり、と軍議の場が揺れた。


「烏巣は、機密情報だ。知っている者は少ない……」


袁紹はゆっくりと幕僚たちを見渡した。

その目は、疑念と焦りを必死に押し隠そうとしている。


「……許攸はどうした?」


誰もすぐには答えられなかった。

重い沈黙が落ち、やがて一人の幕僚が口を開く。


「……どこにも姿は見当たりません」


その言葉が落ちた瞬間、軍議の空気が凍りついた。

袁紹の拳が、膝の上でわずかに震えた。

「……烏巣の守りは、どうなっておる」

「淳于瓊殿が守備しております」


----


張郃は、烏巣の方角に不穏な動きがあると知るや、すぐに本陣へ駆け込んだ。

軍議の場には、まだざわめきが残っている。


「殿、烏巣の守備に兵を回すべきです。兵糧を失えば、十万の軍勢といえど立ち行きませぬ」


張郃の声は落ち着いていたが、その奥には確かな危機感があった。

しかし袁紹は、苛立ちを隠そうともせず手を振り払った。


「よい! 官渡を落とせばすべて終わるのだ。曹操の小細工に惑わされるな!」


張郃は一歩踏み出し、さらに強く進言する。


「殿、官渡を攻め続けるのは重要ですが、兵糧を失えば」

「黙れ!」


袁紹の怒声が軍議を震わせた。


「張郃! そなたまで臆するか!烏巣は淳于瓊が守っておる。曹操ごときが破れるものか!」


張郃は言葉を飲み込んだ。

その横顔には、深い影が落ちている。

幕僚たちは互いに視線を交わしながらも、誰一人として袁紹に逆らえなかった。

袁紹は拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。


「官渡を落とせ。それだけだ。烏巣のことは、あとでよい!」


その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。

張郃は静かに頭を下げたが、その胸中には、“この判断が戦の趨勢を決める”という重い予感が渦巻いていた。

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