45.白馬敗走、だが文醜を斬ったのは関羽だった
曹操軍四万は、許昌を発して北へ向かった。
春の冷気が残る街道を、整然とした軍列が進む。
先頭には張遼・于禁ら歴戦の将が並び、その背後で曹操は馬上から前方を見据えていた。
「袁紹軍は、十一万。数では勝ち目はないが、一度白馬を押さえねば河内が危うい」
荀攸が頷く。
「殿。白馬は黄河の渡しに近く、袁紹軍がここを突破すれば、許昌まで一直線。 まずは白馬で足を止める必要がございます」
曹操は短く息を吐いた。
「わかっている」
夏侯惇が馬を寄せてくる。
「殿、白馬での戦は……」
曹操は前を見据えたまま答える。
「当然、負ける。一度ぶつかった後、退く」
夏侯惇は眉をひそめた。
「時間稼ぎ、ですか?」
曹操は首を振る。
「いや、違う」
その背後で、荀彧が静かに口を開いた。
「袁紹軍の弱点は、兵糧です。十一万という大軍は、確かに強大ですがその分、食う量も桁違い。河北から南下するだけで、莫大な兵糧を消費します」
夏侯惇は目を見開いた。
「まさか、殿は」
曹操が続ける。
「白馬で一度ぶつかるのは、勝つためではない。袁紹に『追撃の勢い』を与えるためだ」
荀彧が頷く。
「勢いづいた大軍は、兵糧の消費がさらに激しくなります。袁紹は勝利に酔い、補給を軽視するでしょう。その結果、官渡に至る頃には、兵糧は底をつき始める」
曹操は薄く笑った。
「袁紹は体面を守るために南下した。ならば、その“体面”を利用してやる。勝ったと思わせ、追わせ、疲れさせる。官渡で決着をつけるのだ」
夏侯惇は深く息を吐いた。
「殿は最初から、白馬を捨てるつもりだったのか」
「白馬はただの前座だ。本番は官渡。袁紹の大軍を“兵糧”という縄で縛り、動けなくしてから叩く」
荀彧が静かに言う。
「袁紹は、勝つための戦ではなく、“名門としての面目を保つための戦”をしている。そこにこそ、最大の隙が生まれます」
曹操は馬の手綱を握り直し、北の空を見上げた。
「名門の誇りが、毒になるとは、な」
風が吹き抜け、曹操の外套を揺らした。
――
白馬の平野に到着した曹操軍は、急ぎ陣を敷いた。
その直後、地鳴りのような音が北から響き渡る。
「袁紹軍、来るぞ!」
砂煙を上げて迫るのは、果てしなく続く軍勢。
その先頭に、巨大な影が馬を駆っていた。
文醜である。
「曹操ォォォ――ッ!!」
咆哮とともに、文醜の騎兵が突撃してきた。
その勢いは、まるで異形の群れのような圧力を持っていた。
張遼が前に出る。
「来い、文醜!」
両軍の騎兵が激突し、白馬の地は瞬く間に血と砂に染まった。
曹操軍は奮戦したが、数の差はあまりにも大きい。
夏侯惇が叫ぶ。
「殿、これ以上は持ちませぬ。白馬を捨て、官渡へ退くべきです」
曹操は歯を食いしばった。
「全軍、退却。官渡へ向けて後退」
文醜の追撃は凄まじかった。
曹操軍の殿を務める張遼・于禁らが必死に食い止めるも、その勢いは衰えない。
「逃がすかァァァ!!」
文醜の咆哮が白馬の平野に響き渡る。
その刃は血に濡れ、馬は泡を吹き、まるで異形の獣のような迫力を放っていた。
張遼が歯を食いしばる。
「さすがよ。このままでは殿の退却が」
その時だった。
北東の丘の上に、赤い旗が翻った。
風に揺れるその旗には、「関」 の一文字。
張遼が目を見開く。
「まさか」
丘の上から、一騎、馬が駆け下りてきた。
その背に乗るのは、長い髭を風に流す巨躯の武将。
関羽である。
背後には、わずか三百の騎馬隊。
だが、その突撃は三千にも匹敵する勢いを持っていた。
関羽は叫ぶ。
「助太刀に参った! 文醜、覚悟!」
文醜が振り返り、怒りに燃える目を向ける。
「関羽ォォ!! 貴様、劉備の犬がなぜここに!」
関羽は冷然と答えた。
「劉備玄徳は、帝を守る者。 帝を奪わんとする者を討つのは、我が義である!」
関羽の馬が地を蹴り、関羽の青龍偃月刀が閃いた。
文醜が吠え、槍を構える。
「来いッ!!」
二騎が激突した瞬間、白馬の戦場に、雷鳴のような衝撃が走った。
刹那、関羽の一撃が、文醜の槍を弾き飛ばし、そのまま胸甲ごと斬り裂いた。
文醜の巨体が、血飛沫を上げて地に崩れ落ちる。
「ば…馬鹿な…」
関羽は馬上で静かに刀を振り払い、血を払った。
「文醜、見事な武勇であった」
文醜の死を見た袁紹軍の先鋒は動揺し、追撃の勢いが一気に鈍る。
張遼が駆け寄る。
「関羽殿、助かった!」
関羽は頷き、曹操の退却路を守るように騎馬隊を展開した。
曹操軍は、関羽の援護を受けながら、官渡へと退却していった。
白馬の戦いは敗北だった。
だが、文醜を失った袁紹軍の勢いは、確実に鈍っていた。
――
官渡に到着した曹操は、荒い息を吐きながら天幕に入った。
外では兵たちが急ぎ柵を立て、土塁を築き、迫り来る大軍に備えている。
「……白馬は失ったが、まだ終わりではない。ここ官渡で、袁紹を迎え撃つ」
夏侯惇が静かに言った。
「殿。袁紹軍は、文醜が討たれた事で、少なからず動揺しております。勢いも、先ほどまでのようには参りませぬ」
曹操は頷いた。
「文醜は袁紹軍の“牙”だった。その牙を折ったのは大きい」
荀彧が続ける。
「袁紹は、必ず動きます。文醜を失った今こそ、無理にでも攻勢を強め、『名門袁家は揺るがぬ』と示そうとするでしょう」
「つまり、さらに兵糧を浪費する、ということか」
「はい。袁紹は勝利を急ぎ、補給を軽んじる。その焦りこそが、我らの勝機となります」
曹操は地図の上に手を置き、官渡の位置を指で叩いた。
「ここは狭い。大軍は動きづらい。兵糧が尽きれば、十一万の軍勢もただの群れだ」
「殿、ここで袁紹を?」
「ここ官渡で、袁紹を討つ」
天幕の外では、夕陽が官渡の地を赤く染めていた。
その赤は、これから始まる大戦の血の色にも見えた。
曹操は立ち上がり、外へ出る。
「全軍に伝えよ。ここ官渡こそ、天下の分かれ目となる」
風が吹き抜け、曹操の外套を大きく揺らした。
官渡の戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




