44.名門、南へ動く。鄴より始まる大戦の兆し
河北・鄴。
春の冷たい風が吹き抜ける中、袁紹は広間に諸将を集めていた。
その顔には、焦りを隠しきれぬ影が差している。
「……帝を奪われたままでは、我が袁家の威信は地に落ちる。 曹操め、帝を劉備に預けたままにしておくとは、我を愚弄するにも程がある」
文醜が一歩進み出る。
「殿。帝を取り戻すには、南へ進むしかございませぬ。
神域には手が出せぬ以上、そうするしかありませぬが、必ず曹操殿とぶつかりましょう」
袁紹は唇を噛んだ。
「わかっておる。だが、帝を抱えぬままでは、河北四州をまとめきれぬ。 名門袁家が、帝を失ったまま天下を語るなど、笑い話にもならぬわ」
その言葉には、かつての余裕はなかった。
名門としての誇りが、逆に彼を縛りつけている。
田豊が静かに進み出る。
「殿。今は異形が跋扈し、民は生きるだけで精一杯。
帝の正統など、もはや昔ほどの力はございませぬ。
ここで南下すれば、曹操殿との戦は避けられませぬぞ」
袁紹は怒気を含んだ声で言い放った。
「黙れ、田豊。 帝を抱える者こそ天下の主。
それが乱世であろうと、変わるものか!」
田豊は深く頭を下げたが、その背中は痛ましいほどに沈んでいた。
袁紹は大きく息を吸い、諸将を見渡す。
「……出陣する。 まずは南下し、河内を抜け、許へ向かう。 曹操が立ちはだかるなら、これを討つ!」
広間に緊張が走る。
名門袁家が、ついに動き出した。
――
曹操は、袁紹南下の報を、許昌の本営で受け取ると、静かに目を閉じた。
「……やはり来たか」
荀彧が進み出る。
「殿。袁紹は帝を取り戻すために動いております。
神域には手が出せぬ以上、必ずこちらへ向かうでしょう」
曹操は地図を見つめながら呟いた。
「袁紹は、帝を“旗”としか見ていない。 だが、今の帝はもう違う。自らの意志で動き、劉備のもとへ行かれた」
荀彧は静かに頷いた。
「袁紹は、相変わらず体面にこだわっているようです。異形の脅威が迫る中、もはや漢王朝という枠組みそのものが機能しておりません。そんな中で、正統を掲げるだけでは民は救えません」
曹操は苦笑した。
「だが、名門というものは厄介だ。誇りがあるからこそ、時に愚かになる」
彼は立ち上がり、諸将に命じた。
「袁紹が南下するなら、迎え撃つしかない。だが、こちらから戦を望むつもりはない。あくまで“帝を狙う者を止める”という形を取る」
荀彧が問う。
「劉備殿には?」
「すでに使者を出した。袁紹が動いた以上、上党の備えを固めてもらわねばならぬ」
曹操の目は鋭く光っていた。
「袁紹が時代を見誤るなら、俺が正すしかない」
――
袁紹南下の報は、上党にも届いた。
劉備は深く息を吐き、帝のもとへ向かった。
帝は畑の端で、鍬を置いたところだった。
「劉備。袁紹が動いたのだな」
「はい。陛下を取り戻すために、南下を開始したとのこと」
帝は空を見上げた。
「あの男は、まだ“帝”という旗にすがるか。だが私は、もう旗ではない。ここで生きる民の一人だ」
劉備は静かに頷いた。
「袁紹殿がこちらへ来る可能性もあります。備えを固めねばなりません」
帝は鍬を握り直し、言った。
「私も出来る限りの事をしよう」
その眼差しは、かつての帝とは違う強さを宿していた。
夕陽が帝の背を照らし、長い影が畑に伸びていった。
――
建業。
長江を渡る風は温かく、北方の緊張とは別世界のような静けさがあった。
孫堅は城楼の上から、ゆったりと流れる大河を見下ろしていた。
その背後には、孫策・孫権、そして周瑜・程普らが控えている。
「父上。袁紹が南下を始めたとの報が入りました」
孫策の声に、孫堅は目を細めた。
「……ついに動いたか。
帝を奪い返すために、曹操とぶつかるつもりだな」
周瑜が進み出る。
「はい。神域には手が出せぬ以上、袁紹軍は必ず南下し、曹操殿も迎撃の構えを見せているとのこと」
孫堅は静かに笑った。
「名門の袁家らしい。 時代が変わっているのに、まだ“帝”という旗にしがみつくか」
孫策が問う。
「父上。我らはどう動きますか? 北が戦で荒れれば、南は好機となりましょう」
孫堅は大河の向こうを見つめたまま、ゆっくりと答えた。
「……曹操と袁紹。 どちらが勝っても、必ず大きく疲れる。その隙に、我らは益州を取る」
周瑜が頷く。
「益州は山に囲まれ、異形の侵入も少ない。民も豊かで、兵糧も潤沢。長江と合わせれば、天下を争う基盤となりましょう」
孫堅は拳を握った。
「そうだ。 異形が跋扈するこの時代、守りやすい土地こそ価値がある。 名門の体面や正統など、腹の足しにもならぬ」
孫権が静かに言った。
「父上は、袁紹や曹操とは違う道を行かれるのですね」
孫堅は笑った。
「俺は“生き残る道”を選ぶだけだ。民が生き、兵が生き、我らが生き残る道をな」
その声には、北方の覇者たちとは違う、現実を見据えた強さ”があった。
孫堅は振り返り、諸将に命じた。
「周瑜、孫策。益州へ通じる道を探れ。蜀の豪族たちの動向も調べておけ」
「はっ」
孫堅は再び大河を見下ろした。
長江の水面が、夕陽を受けて赤く染まっていた。




